昨日くらいから、田村市の子供達全員が首からあるものをかけるようになりました。
小学生も幼稚園も、保育所の子供も全員。
ご想像の通り、放射能積算計量計。
ガラスバッジです。当初1カ月で積算線量の目安を調べ、その後3か月継続して調べるのだそうです。
正直、遅いんじゃないかなという気はちょっとします。
一番濃かった時期を計算に入れないと、正確な数値は解らないように思うのですが、それでもやらないよりはずっといいのは確かです。
子供達は首から下げるネームプレートのケースの中に自分の名前が書かれたガラスバッジを入れ、なるべく身体から離さないように言われています。
今のところは物珍しさもあって大事に持っていますが、いずれ無くしたりする子がいそうで心配ですが‥‥。
震災からもうすぐ半年。
ようやく色々な体制が整ってきたように思います。
ガイガーカウンターも入手しやすくなってきましたし、除染も少しずつですが進んできています。
根本的な問題は何一つ解決しておらず、先行きが全く見えないのもまた事実ではあるのですが、それでも、昨日より今日、今日より明日が良くなっていると信じて私達は頑張るしかないのだと思います。
計測をしていると子供が
「今? 何マイクロシーベルト? あ〜、けっこうたかいね〜」
と言ってきたり、子供同士の普通の会話に放射能とか、ベクレルとか会話が入ってきたり。
地震に慣れて小さな揺れでは驚かない反面、ある程度以上揺れたと思うと指示するより早く、机の下に潜ったり。
本当に目にもとまらぬ速さです。
良いことも悪いことも、震災で染みついてしまった子供達。
少し悲しくもあるのですが。
先日の日曜日郡山のイオンタウンに行ってきました。
そこでは先週24時間テレビのイベントでコインアートが行われたのですが、他にも講談社関連の漫画家さんのサイン色紙が飾られてあると聞いて見に行ってきました。
マンガを良く見る私でさえ、解らない大人向けの漫画家さんが多くいらっしゃいましたが、その色紙一枚一枚に込められた優しい気持ちは伝わってくるようで嬉しかったです。
多くの人が足を止めて写真を撮ったりしていました。
嬉しそうに絵を指差す子供とかも。
実は‥‥震災後、とても残念に思っていたことがありました。
私自身自分のパソコンに落ち着いて触れるようになったのは震災後2週間以上過ぎてからだったのですが、その時にネットにたくさんの漫画家さんが応援イラストなどを寄せて下さっていることを知ったのです。
同時に、震災で流通されなかったマンガの最新刊をネット配信したりしていたということも。
メッセージに寄せられた一人一人の思いは確かに伝わってくるのですが、私はそれに少し疑問を感じてしまったのです。
どうして、インターネットでの公開なのだろう。
と。
そのメッセージを一番必要としているのは、いう間でもなく避難所で避難されている方達です。
けれどその方は勿論、インターネットを見られる環境にはありませんでした。
しかも、そのメッセージの多くは各マンガのHPのみに掲載されていて、本気で探さないと見れないものが多かったのです。
携帯で見ることも難しかったあの時。
私は思いました。もし、このイラストをインターネットな中だけに置かず、皆に見せてあげられたら、きっとみんな喜ぶのに。
と。
本にまとめるとか、絵葉書にするとか、せめてプリントアウトの許可を出すとか。
そうすれば、もっとたくさんの人が笑顔になって元気づけられたろうに。
と。
その中で、講談社の皆さんがインターネットの中だけでなく私達の側に来て、私達に手渡しでマンガの力で励ましてくれました。
浪江のイベント、24時間テレビのイベントで。
沢山の人が笑顔になりました。
他にも福島空港で何人かの漫画家の方がいらしてくれたこともあり、それも嬉しかったのですが、やはり思いました。
せっかくの優しい気持ちをネットの中だけに仕舞い込まないで欲しいと。
外に出して、私達の手に届けて欲しいと‥‥思いました。
別にサイン会をまた、というわけではありません。
ただこんな風に展示会をしたり本にしたりとかできないかな。
と思ったのです。
マンガの力は確かにあります。
人を元気づけて笑顔にしてくれます。
その力をもっと多くの人に伝えて欲しい。
ささやかなマンガオタの願いでした。
これを聞いたのは日曜日の事です。
灯篭流しの楽しい話題を切りたくは無かったので今日に持ってきました。
皆さんの意見も伺いたいです。
ある福島県の人が東京に行きました。
新宿駅を出て歩いていると原発反対の団体が呼びかけをやっていたのだそうです。
そして、その人物にチラシを配りながらこう呼びかけました。
「あなたは原発の電気を使えますか?」
「あなたは福島に住めますか?」
その人物は涙ながらに言います。
「言ってやりたかった。私は福島に住んでいると。今もたくさんの人が住んでいるんだ」
と。
大震災以降原発反対の機運が高まっていることは知っています。
原発の電気と他の発電所の電気分けて使えるのか?
とか言いたいですが別段、そのこと自体には反対するつもりはありません。
原発反対ではないのか?
と問われると、いろいろ考えることもあるのですが、原発そのものが悪いわけでは無い様に思うのです。
(そのことに関しては書きだすと長くなるのでいずれ)
勿論、いつ止むともしれない原発の恐怖に怯えているのは東北や福島だけでなく、東日本、ひいては日本全国同じですから原発反対を叫ぶ人が増えるのは当然だと思います。
しかし! その引き合いに福島の名を福島を知らない人に簡単に出して欲しくありません。
しかも福島がすでに住めないかのように。
福島に住んだら死ぬかのように。
今も福島には200万人が住んでいます。
今もなお、住んでいるのです。
そういう活動家の方達は「福島には住めない」と思っているのでしょう。
政治家、東電の職員などに「福島に住め!」と言っている人もネットなどで多く見られます。
けれど、そういう方達は逆から見れば「福島に住むことは怖い、福島には住めない」と思っているのでしょう。
あの震災後、呼吸するのさえ恐れた地獄の一週間の恐怖も知らず、未だ収まらない原発の隣で、毎日数値を気にしながら生きる思いも知らず。
本当は福島は人が住めない場所になっているのかもしれないという恐怖と戦いながら私達は今も、福島に住んでいるのに。
ここで生きて行かなければならないのに‥‥。
最悪、別にそう思っていても構いません。
でもそれを口に出して、不特定多数の人に呼び掛けるなんてしないで欲しい。
自分達の考えの正当性を示す為に、福島を引き合いに出さないで欲しいと私は思います。
私の僻みでしょうか?
私は間違っているでしょうか?
皆さんは、どう思いますか?
今日は田村市の灯篭流しと花火大会でした。
先週24時間テレビと重なって一度は諦めたのですが、その日は台風だったため水かさが高く灯篭流しは延期となったのだそうです。
ラッキー。
と言っていいのか。
とにかく今日はお祭りに行くことが出来ました。
それ程大混雑と言うわけではありませんでしたが、なかなかの賑わいでした。
例年恒例の大物灯篭もあり、観客の目を楽しませていました。
写真は地元のスーパーが作った灯篭「ダンボール戦記」です。
‥‥‥‥またマニアックな。
テレビ東京系なのでこっちでやってなかった気がするんですけどね。
でも力作でした。
大滝根川を流れる灯篭は、やはり少し神秘的です。
今年は個人の灯篭が多く集まり、やはりそれぞれにメッセージを書き込んでおられたようでした。
「がんばろう福島」
「がんばっぺ 田村」
「どうか見ていて下さい」
「絆」
など。
もうすぐ、震災から半年。
良くも悪くも変わらない原発の現状。
でも、こうして自分達の町で祭りを楽しめるのは、とても幸せな事だと改めて思いました。
花火も例年通り打ち上げられました。
釈迦堂川や昨日あったという隅田川に比べれば本当にささやかですが、その分、割と近くで降る様な花火を楽しめました。
こういうのが地元花火の楽しみかもしれません。
まずはちょっと勘違いさせてしまったようなので。
現在田村市には4か所の仮設住宅が建設されており、その殆どは警戒区域である都路地区の方々が住んでいます。
一部避難準備区域の方も。
で、その他、大熊、双葉の方が数世帯いらっしゃることは存じています。
10日に避難所が閉鎖されるまでは旧春山小学校に都路の方が、就業改善センターにその他の方がいらっしゃいました。
避難所の閉鎖と共に他県などに移動された方もいますが、仮設住宅に移動された方もいるようです。
ですが、これは、個人レベルで残って下さった方々で、自治体レベルで避難している地区、行政機能を移したり、町ごと移住してこられた例は田村市にはないということです。
飯館村や、伊達市の避難勧奨地域の方などは福島市に避難されています。
双葉町は埼玉に、大熊町は会津に、浪江町は二本松市に、川内村は郡山に、会津美里町にというようにです。
広野町もいわき市に仮設住宅を建設されていますし、三春町などは富岡、葛尾と一つの町に三つの町の機能があるという事態になっているのです。
だったら田村市は余裕がある筈なのだから、他の自治体を受け入れて一緒に力を合わせていくべきじゃないかと思う、という話でした。
色々と事情や背景があるのでしょうから、とりあえずは素人の戯言とお捨て置き下さい。
ご不快を与えてしまいましたらすみませんでした。
昨日、震災後初めて3km圏内の方々の一時帰宅が行われました。
防護服を着て完全防備で、それでも数か月ぶりに自宅へ帰った皆さんのお気持ちはどんなものだったでしょうか?
3km圏内は長期に帰れない可能性があると国が正式に先ごろ発表しました。
その上での一時帰宅。
机の上には3月11日の新聞。参る人の無い仏壇やお墓。
時が止まった家、地震ではなく空き巣に荒らされた家。
私達が想像もつかない思いだったことでしょう。
帰りたい。でも帰れないと、諦めなければならない。
そんな方達の為に何かできることはないのだろうかと、考えずにはいられませんでした。