京都の送り火の件は、結局行きつ戻りつして最終的に薪を使わないと言うことになったようです。
薪の表皮からセシウムが検出されたとか。
今回の件に関しては偏狭報道もあると言うことで纏めサイトを教えて頂きました。
個人でも調べたので事情も大よそは理解していますけど、最終的な結論を聞いて正直もういい加減にして欲しいと思いました。
さぞ、関係者はホッとしているでしょうね。
中止にする大義名分ができて。
放射性物質の件で苦情を言った人の、見た事かと言う顔が目に浮かぶようです。
これで西の方達は自分達が正しかったと胸を張ることでしょう。
京都は岩手を含む被災地を期待させ、叩き落とし、もう一度期待させ、再度息の根を止めた訳です。
汚染地と言うレッテルを貼ることで。
中止してゴメンナサイで終わってくれればよかったのに。
でもまあ、結局ところ世論に振り回された京都(市も大文字保存会も含む)ある意味犠牲者と言えるかもしれません。
私は最近思っていたのですが、一部の方達はなんだか「被災地支援」と言う言葉をお祭りか何かのように感じているのではないでしょうか?
「被災地の為」と言う言葉を出せばだれも断れない。断れば思いやりがないのかと責め立てられる風潮がなんだかあちらこちらに見られます。
そして「被災地の為」に何かをする自分に、酔っている人もいるのではないでしょうか?
本当にそれが「被災地が望んでいる事」であるかも解らないのに。
今回の薪の件も元はまったく陸前高田に関係のない人が思いつきで始めた動きであったと聞きますし、それに、ちょっと震災直後に届いた支援物資などにも悩むことがありました。
被災地の子供にオモチャや衣服、本を。というボランティアの動きがたくさんあり、私もそれを仕分ける機会が少なからずあったのですが、その中には眉をひそめるものも正直ありました。
名前が書いてある絵本はまあ、許容範囲です。
大事に読んでいた本を送ってくれたのだろうと思えます。
でも電池の無い、電池で動くおもちゃ。子供のよだれで汚れたり破けたぬいぐるみ。
パーツの足りないパズル。
色の褪せた積木、
落書きがあって壊れたおもちゃ。
そんなものは、全てを無くしたり、置いてきてしまった子であっても宝物にはなりえないでしょう。
まして、学校行事名が刻印され、しかも削られた使用済み鉛筆や、半分以上使ったであろう消しゴムを大量に送られてもゴミが増えるだけ。それくらいであれば、思いやりのある手紙一通の方がよっぽど、心慰められます。 震災から五か月。
もう一方的で闇雲な支援が求められる時期は終わりました。
今後被災地に求められるのは、本格的な復興支援や心のケアなどです。
親切の押し売りは自立していかなければならない被災地の為になるとは限りませんし、むしろ傷つけることもあります。
今回の件のように。
だから、前にも言ったことがある気がしますが、被災地や被災者の為に何かをしようと思う時、それが本当に為になるのか、考えて欲しいと思います。
ちなみに今回の薪の件は明らかにありがた迷惑であったと思っています。
私は。