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弥勒

「キミか」「弥勒殿」
泣いてしまいそうな表情をした女の髪はずぶ濡れで布を巻いて現れたのだ。何が女をそうさせたのかは分からないが、畳が濡れないように男の傍らに腰を下ろした。
「怪我はないのか?」「ありません、--ですが、少し、疲れました」
そう言って顔を伏せ、小さく誰かの名前を呟いた。懐かしそうに切なそうに呟いた名を男は聞き取ることが出来なかった。
「厄介ですね、龍閃組とは」「そうだな」「弥勒殿に面を頂いて正解でした、不思議な面ですね」「役に立てたのなら面も喜ぶだろう」「はい、‥素で町で見かけても誰も気付きません--彼以外、は」

弥勒

「おい!あいつ知らないか?」「‥あいつ?」「ちっ‥ここにいないとなると、外に出たのか」「用件は?」「っ‥お前には関係ないだろ、ただの手合わせだよ」「そうか、彼女が来たら伝えよう」「お、‥おう」
風祭がなんとなく困惑したような声色を出した後、走って行った気配を感じて、立ち上がると音を立てて襖を開ける。そこには小さく膝を抱えた女がいて--まるで座敷童のようだった。
「‥だ、そうだが?」「私は薬業で忙しいのです」「ならば、小屋の鍵を掛けてしまえばいいだろう」「それも簡単にはいかなくて、風祭が一番厄介です‥今のところは」「苦労をしているな」
押し入れから出てきた女は肩を落として背後に腰を下ろした。俺が溜め息をつくと背中にのしりと重みが掛かり、背後からも溜め息が聞こえた。
「弥勒殿、申し訳ありません。いつもいつも何かと立ち寄ってしまって」「いや、気にするな」「静かに作業をしたいという気持ちは理解できるのですが、どうしても‥頼りにしてしまいまして」「‥‥--だ」「えっ?」
俺が会いたいと思うときにいつもお前は来るだろう有り難いことだ、と二度は言えない事を口にしてしまった。女は暫く背を預けて--風祭の怒鳴り声がすれば逃げるように去ってしまった。

弥勒

今日は夕刻より雨が降る、そう言われて早々と店を終いにしようと思い帰り道に降られた。商売道具を背負い宿の軒下を借りていれば誰かが走ってくる気配がし、そちらを見やれば見た顔だった。
「弥勒殿、振られましたか」「‥‥」「私もです、また主殿に叱られてしまいます」「そう、だな」
主というのは九角のことだ、知られてはならないと女は彼をそう呼ぶ。何故此処にいるのかは知らないが隣にいる女も商売道具を所持している、商売帰りなのだろう華奢な身体に似合わない木箱を大切そうに抱えていた。
「弥勒殿?」「宿に泊まるか」「通り雨でしょう、すぐに止みます」「そうか」
空を見て憂鬱そうな表情を見せ、茶屋に入ればよかったと笑ってみせた。
「あ、」「‥キミも降られたの?」「そちらは?」
俺を見上げて居心地が悪そうに男を見た。ただの町人にこんな表情も見せるのかと驚いたが動けないのは雨のせいだと言って俯いてしまった。
「これ、使って。俺は仲間が来るの待つから」「ありがとう、借りは返す」「いや、いいんだ。早く行け、仲間が来る」「行きましょう、‥ありがとう、龍斗」
素直に受け取った番傘、すぐに開いて俺の腕を取り一歩踏み出した。
「あの男は」「弟です、我々の--主殿の敵ですが」「追っ手は来ないのか?」「あの子はそういうのを嫌います。隣に居るのが弥勒殿で良かった」
身長差に腕が疲れてしまうだろうと傘を受け取り--少しだけ失った腕が惜しく思えた。腕が手指があれば、その手に触れる事が出来るのに。

弥勒

夢の中の女はいつも気難しそうな表情を見せていた。女の顔ははっきりとは分からないのに何故それがわかるのか、不思議ではあったが今夜もまた夢の中の女は俺を見て「弥勒殿」と呼ぶ、表情は分からなくとも声色は柔らかいと感じた。手を伸ばしても届かないのは知っている、幾度も見たこの夢は終わりがないのだ。
「弥勒?」「‥俺を呼んだのは龍斗、キミか」「うなされていたようだが」「いや、どちらかと言えば幸せ、だった」「幸せ?」
訝しげに俺を見る眼がどこか懐かしく感じた、彼ではなくもっと昔に--夢の女に見られているような感覚に俺は龍斗を友であるとすぐに受け入れていた。
「弥勒、簪の相手は見つかったのか?吉原に行っていただろう」「いや、どうやらあそこにはいないようだ」「ふぅん、--まあまだ見つからないと思うがな」「龍斗?」「夢の女とやらに会えるといいな」「夢は夢でしかないだろう」「そうだな」
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