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雨がやんだら(キ学:数学教師 シリーズもの)

その日の天気予報は朝から晩まで一日中晴れ、の予報で
降水確率も0%ってテレビに映ってて
だったら傘なんていらないだろうと
カバンに入れてた折りたたみ傘を部屋に置いてきちゃったので
予報ハズレのざあざあ降りに
わたしも、彼も、ずぶ濡れで
雨の中を踊るように、ひたすら走った。


「冷たーっ!もう最悪っ」

暗がりの玄関の中で、カバンからハンカチを取り出す。
可愛さ重視のそれ、全然水滴を吸ってくれなくて。

「ちょっとここで待ってろォ、バスタオル取ってくる」

この家の主、実弥ちゃんはバタバタと靴を脱ぎ散らかして家の中に入っていく。
すぐに戻ってきた彼の手には、厚手のバスタオルが握られていた。

「ありがと」

髪の毛の水分をバスタオルで拭いていると、「お前、全身びしょ濡れじゃねぇか」と、わたしを心配する声が聞こえた。
そんなこと言って、実弥ちゃんも相当びちゃびちゃなんだけど。

「ほんとごめん、すぐ帰る」

緊急避難、で家に寄っただけ。
こんな状態でさすがに長居は出来ない。
ある程度雨粒を拭き終わったら、すぐにお暇するつもりだった。

「帰るってお前、その状態で帰るつもりかよ」

「え?そうだよ」

「馬鹿野郎、風邪引くだろうが」

泊まってけ、なんてあっさり言われたけれど
はい泊まっていきます、なんてあっさり返すこともできなくて。

「だって着替えもないし」

「俺のでいいだろ」

「メイク落としとか、化粧水とかもないし」

「コンビニにあるだろうが。テキトーに買ってくるわァ」

「こんな状態で人の家におじゃまなんか出来ないよ」

「濡れたまま帰らせるわけにはいかねぇだろうが」

なんだかそこまで言われると、帰る理由もなくなって。

「……いいの?」

わたしの疑問符に、実弥ちゃんは
早く家に入れと手招きした。

「わ、靴下もやば」

靴も、靴の中も、すっかり水浸しで。
慌てて靴下を脱ぐけれど、裸足で人の家に上がるのも気が引けて。
もう一度靴下を履いて、肩にかけていたバスタオルで懸命に水を吸い取って拭いていると、奥に引っ込んでいた実弥ちゃんが駆けてきた。

「お前先に……って、何やってんだァ」

「えっ、だって人様の家に上がるのにこんな状態じゃ、」

「んなの気にしてる場合か!」

「ちょ、ちょっと待って!?」

ぐいぐいと引っ張られて、思わず大声が出る。

「分かった!分かったから!濡れた靴下でごめん!おじゃまします!」

「そんなんどうでもいいから入れェ!」

さらに引っ張られて、足がもつれたままお風呂場へと案内される。
そのまま押し込められて、扉をぴしゃりと閉められた。

「置いてあるもの適当に使っていいから、身体あっためてろォ。コンビニ行ってくる」

「あっえっ、実弥ちゃ」

呼び止めるより先に、家の主は玄関から出ていってしまった。
ガチャリと鍵が閉まる音がして、ひとりぼっちになったわたし。
どうしよう。この状況に戸惑ってると、くしゃみが出た。
自分が思っているより、身体が冷えているらしい。

「……もう、知らないっ!」

どうにでもなれ、という半ばヤケクソな気持ちで肌に張り付いている服を脱ぐ。
どこに置けばいいかまでは言われてなかったので、床が濡れないようにとりあえず洗濯機の上に置いておいた。
それからお風呂場に続く折れ戸を開ける。
ひやりとした空気が地面を這って、身震いした。
急いでお風呂場に入って、お湯を出す。
全身にお湯を浴びると、冷たかった身体がじわじわと暖かくなっていって
思わずため息が出た。

「あったかーい……」

お湯のありがたみを感じていると、玄関の重い扉が開いたのが分かった。
ややあって、入るぞと実弥ちゃんの声。

「顔周りのやつ買ってきた。ここに置いとくわァ」

「あ、ありがと」

「風呂入るか?すぐ沸くけど」

「うーん、大丈夫」

置かれていたのはコンビニで売っている、クレンジングやら化粧水やらがセットになっている
少しお高めのセットだった。
顔に傷のある目つきの悪い男が、女物の商品を持っていく、そのアンバランスな組み合わせを想像して、思わず吹き出す。
ありがたく袋からクレンジングオイルと洗顔フォームを取り出して、化粧を落とした。
ここまで来たら何をしても怒られないだろうと、髪の毛を洗い、身体も洗わせてもらった。

お風呂から上がると、洗濯機の上には
びちゃびちゃに濡れていたわたしの服の代わりに
灰色の上下スウェットが、綺麗に畳んで置かれていた。
着てみるとそれは思ったよりも大きくて、所謂これが彼シャツか、なんて思った(彼氏じゃないけど)

「……ごめん、先にお風呂借りました」

おずおずと居間に入る。
初めてお邪魔した彼の家。緑と茶色を基調としていて、余計なものがないシンプルな空間が広がっていて。
カウンターキッチンの向こう側で、半裸の実弥ちゃんがなにか作業をしていた。
(服を脱いでいるのは、濡れた服を着ているのが嫌だったんだろうな)

「実弥ちゃんもびしょ濡れだったのに、家主より先にお風呂借りちゃってごめん」

「あ?別にィ。俺は身体が頑丈だから気にすんなァ」

「お風呂入ってきなよ。寒いでしょ」

「今あったけぇ飲み物作るから、適当に座ってろォ」

なんて至れり尽くせりなのだろうか。
ここまでしてもらうと、逆に申し訳なくもあり。

「なんか手伝うよ」

そう申し出るも「いいから座っとけ」と、丁重にお断りされた。
あまりしつこいのもなあ。
迷って、大きな茶色のソファに座った。
体重分柔らかく沈みこんで、心地いい。

「コーヒーにするか?紅茶もあるけど」

「あ、なんでも。そのどっちかだと、紅茶がいいかな」

「了解」

ややあって、湯気のたつ紅茶が運ばれてきた。

「じゃあ一風呂浴びてくるわァ。ごゆっくり」

「あ、はい」

実弥ちゃんがいなくなって、ひとりぼっちになる。
なんだか落ち着かなくて、辺りを見渡した。
さっきまで実弥ちゃんが立っていたカウンターキッチンには、小さな盆栽が置いてある。なんで盆栽が置いてあるんだろう?
それから壁に、小さい子が落描きしたような紙が貼られている。描かれているのはウニのような栗のような、青色のギザギザしたなにかだった。
この部屋に不釣り合いなそれら。気になるので、後で聞いてみることにしよう。

ソファの傍にあるテーブルはガラスの天板で
、透けている天板の下には数学の参考書や、筋トレの雑誌、テレビのリモコンなんかが置かれている。
雑誌を手に取り開いてみる。効率的な筋トレの方法、と書かれている見出しが目に入った。ホント、筋トレが大好きなんだなあ。
雑誌を戻して紅茶をひと口啜る。ダージリンか、アールグレイかよく分からないけど
苦くて、少し甘い味がした。

「雨止まねぇな」

紅茶の味を味わっていると、お風呂から上がった実弥ちゃんが話しかけてきた。

「そうだね」

リビングにある大きな窓を、沢山の雨粒が叩く音。
バスタオルを頭にかけ、わしゃわしゃと拭きながらわたしの隣にどかりと座った。
半裸なのは……まあ、きっと、それが彼の家スタイルなんだろう。

「お前髪の毛乾かすよな?先乾かしていいから。俺洗濯機回すわァ」

「え、ドライヤーも先にいいの?ってか、借りていいの?」

「貸さねぇ理由がねぇだろォ」

ドライヤーは洗面台にあるからと案内され、戸惑いながらもその場所に向かう。
壁にかかっていたそれを手に取り、スイッチを入れると熱風が出た。
いつものように、髪の毛を乾かす。ただ、あまり時間もかけていられないなと思ったので、ある程度乾いたところでドライヤーを置いた。
居間に戻ると、実弥ちゃんがビール缶を開けていた。つい数時間前までわたし達、居酒屋で飲んでいたはずなのに。

「飲みすぎじゃない?」

わたしの疑問に「別にいいだろ」と、言葉を続ける。

「走って酒が抜けたんだよ」

「アルコールの分解早すぎでしょ」

「あんなん飲んだうちに入んねぇだろ、俺もお前も」

「確かに」

実弥ちゃんもわたしも、お酒は強い方で。
今日は大雨のせいで一次会までだったけれど、次の日休みならもう一軒ははしごしてる。そう考えたら飲み足りないのも納得だ。

「お前も飲むか?ビール」

「えっ、いや、大丈夫」

「あっそ」

「うん」

沈黙。
慌てて口を開いた。

「あっ、ねえ。あの、壁に貼ってるやつ」

「あ?」

例の絵を指さすと、弟が描いたやつと教えてくれた。
絵の正体は、どうやら実弥ちゃんらしい。
弟、と言うと、同じ学校にいる彼の弟のことだろうか。それにしては絵のタッチが子どもっぽいような。
きっと昔に描いてくれたやつを、今も大切にしているのだろう。ひとり暮らしの家に持ってくるくらい、嬉しかったんだろうな。

「あのよォ、」

そんなことを考えていると、実弥ちゃんに話しかけられた。

「客用の布団ねぇから、一緒のベッドでいいか?」

「……え?」

今なんて。
聞き返そうと思ったら、先手を打たれた。

「だぁから、客用の布団がねぇんだっつの。ソファで寝かせる訳にもいかねぇし、一緒の布団でいいだろって」

「え!」

はっきり言われて、動揺した。
一緒のベッドで寝るなんて。

「えっやだ無理!」

「はァ!?」

ずいっと近付いてきたので、反射的に逃げる。

「おいなんだ無理ってェ」

「だってそんな、かっ、……彼氏彼女みたいな」

「あのなァ……」

わたしのしどろもどろな発言に実弥ちゃんはぁとため息をつき、それからタオルの向こう側でニヤリと笑った。

「……やることやってるんだぞ?俺ら。今更一緒に寝ることくらいなんともねぇだろ」

それはそうなんだけど。

「いやいや、全然違うでしょ!」

「違くねぇって。つーか。なんでそんなに恥ずかしがるんだよ」

「恥ずかしがってないっ!ただ……」

「ただ?」

もう一つ、距離を詰められる。
じっと見つめられて、思わず逸らした。

「……寝相悪いから、迷惑かなって」

「は、」

瞬間、ぶはっと吹き出される。
顔に熱が集まって、大きな声が出た。

「ねえ!なんで笑うの!?結構真剣に悩んでるのに!」

そう。実は小さい頃から寝相が悪く、過去にお付き合いしたことがある男の人にドン引きされたことがあるくらいだった。
そんな醜態、すきだった人に晒すことなんてできない。できるわけがない。
わたしの胸中を知ってか知らずか、手をひらひらと振り、悪ぃ悪ぃと笑いながら軽く謝られる。

「そんなことかよって思ってな」

「そんなことって何さ!」

「大丈夫だァ」

不意に、大きな手がわたしの頭を優しく撫でた。

「暴れん坊の相手は慣れてるし、問題ねェ。いいから一緒に寝るぞ」

……まるで小さな子どもに言い聞かせるような言い方だ。
こうなったら、もう開き直るしかない。

「どうなっても知らないから。蹴っ飛ばしても怒らないでね」

「んなことで怒るかよォ」

目尻を下げて笑う実弥ちゃんが、気のせいか怖く見える。
頼むから大人しくしててね、わたしの身体。

***

カーテンの隙間から漏れる淡い光に、薄目を開ける。

「んー……」

起きない頭で朝を認めて、布団から出ようと伸びをした、その時だった。

「……んぇ!?」

実弥ちゃんの寝顔が眼前一杯に広がって、思わず変な声が出た。
その声に、眉をしかめながら実弥ちゃんが目を開ける。

「……ぅるせぇなァ、なんだよ朝から」

「ぅあっ、さっ、実弥ちゃん!ごめんっ」

「んー……」

むにゃむにゃと枕元のケータイをいじり、時間を確認した実弥ちゃん。
乱暴にケータイを置き、それからわたしに抱きついてきた。

「起きるにはまだ早ぇだろォ」

「えっ、あっ、」

寝るぞォ、と、すごい力で抱きつかれる。

「分かった、分かったから、寝る、寝るからっ」

「ぅん……」

わたしの一言を聞いた実弥ちゃんは安心したのかなんなのか、急に手を解いてそれからごろりと寝返りを打つ。
このまま布団から出るのも憚られたので、実弥ちゃんと背中合わせになるようにわたしも体勢を変えた。
あんなにドキドキしていたのに、布団の暖かさと背中に感じる温もりのお陰で、次第にうとうとしてくる。人と寝るって、こんな感じだったっけ。
過去の恋愛を思い出そうとするけれど、上手くいかない。なんだか思い出が霞みがかっているような。昨日の夜の雨で、全部かき消されてしまったような。
ここにいるのは、中学の時にすきだった男の子で、でも、しばらく会わない間に、男の人になっていて。
早くこの想いにケジメを付けたい気持ちもあって、でも、違う体温にずっとくっついていたい自分もいて。
あれこれ考えているうちに、いつの間にか寝てしまった。

***

「そんなこともあったなァ」

同じ布団の中で、ふたりで笑う。
あの日と同じように沢山の雨粒が窓を打ち付けていた。

「お前、あの時寝相酷かったぞ。いや、今もひでぇけど」

「だから言ったじゃん。寝相悪いよって」

「おまけに寝言もひでぇもんだ」

「えっうそ」

「嘘」

「ばか」

布団の中で、実弥ちゃんを蹴り飛ばす。
お返しにと両手を掴まれ、抵抗する前にがばりと組み敷かれた。

「するんですか?」

「しますけど」

首筋に唇が触れ、くすぐったくて身を捩る。


雨がやんだら


「やだーっ、酔っ払いに襲われちゃう」

「もう襲われてんだよォ。覚悟しろ」

きゃあきゃあとふざけあうわたし達の声と雨の音が混ざって、少し冷たいシーツに溶けて消えた。

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その風をまちわびるH (kmt:風柱)

暗がりの部屋に、小さい灯りがひとつ。
頼りなくとも安心するような色の中で
敷いた布団の上に、男女が正座で向かい合いながら
お互い何も言わずに座っていた。

「……」

「……」

目の前にいらっしゃるのは、この家の主でわたしを雇用してくださってる風柱様。
……とお呼びすると最近は返事をしてくれないので、恐れ多くも下のお名前でお呼びしている。

そんな彼、実弥さん──に、夕餉の後「落ち着いたら俺の部屋に来い」と言われたので
言われた通り、一通り家事を終えてお部屋に向かうと、実弥さんはお布団の上で正座されていた。
わたしもそれに倣って正座をしたのはいいのだけど、ここになぜ呼ばれたのか分からず。もしかして説教かもしれない、と、ここ最近の行動を振り返っている途中で、不意に名前を呼ばれた。

「はい」

「……」

「……?」

なにか、言いあぐねている様子だ。
もしかして、言葉にするのも躊躇われるくらいにどデカいことをしでかしてしまったのだろうか。
思い当たる節がありすぎて、顔から血の気が引く。
もしかしたら暇を言い渡されるかもしれない。

「あの、気付かないうちに粗相や無礼なことをしてしまったのでしょうか」

「は?」

「そうでしたら申し訳ございません。身を引き締め、より一層風柱様のお役に立てるよう」

そこまで言うと待て、と制止される。
しまった、風柱様呼びしてしまったとそこで気付いた。
怒られる。慌てて頭を下げた。

「す、すみません!」

「あ!?なんで急に謝るんだよ」

「いえ、風柱様呼びをしてしまいましたので気分を害されたかと」

「んなの、どうでもいいわァ!待てって言ったのはお前が勘違いしてるからで」

「へっ」

顔を上げる。
困ったように眉を下げ、複雑そうにする実弥さんが映った。

「……お前はよくやってくれてる。役に立たねぇなんて思ったことなんてねぇし、むしろ感謝してる」

「そんな、勿体ないお言葉です」

「それで……」

「……」

「……」

「……」

やはり、いつもと雰囲気が違う。
心配になって顔を覗き込むと、ぷいと逸らされた。

「あー……なんつーか、その」

「……実弥さん?」

「えーと……」

「……お身体の具合が悪いのであれば、もう横になった方が」

「いや、違うんだァ……」

「違うと仰りますが、顔色が悪いように見えますよ」

「いや、具合が悪いわけじゃねぇんだ」

「ではなぜ、そんなに顔が赤いのですか?」

「!?」

ばっと顔を隠される。
もしかして古傷が傷んでいるのでは。
風柱の頃から彼は傷口を自分で処置していたり放置してしまう癖があったので、もしかしたら今回もそれかもしれない。
発熱しているのかと、容態を確認するため手を伸ばすと、勢いよく手首を掴まれた。
冷たい体温に、情けない声が出る。

「ひゃっ」

「あ!悪ィ」

「いえ、こちらこそ情けない声を上げてしまいすみません」

「いや……」

「……あの、手を離していただけますか」

わたしの申し出に、実弥さんは応えてくれなかった。
握られている手に、力が入る。

「……」

「……」

伏し目にくっついている長いまつ毛が、淡い明かりに揺れる。
その姿になんだかドキリとして、喉が詰まった。

「……おい」

「……はい」

握られていた手がそっと離れ、それからわたしの手を優しく包んだ。

「……俺は、老い先短けぇから、だから……お前のこと、碌に幸せにしてやれねぇかもしれねぇけど、それでも俺は、お前と……お前と、夫婦になりてぇと思ってる」

「……え?」

夫婦に?
誰が?誰と?いつ?
実弥さんが祝言を挙げるということ?
誰と?どこで?
というか今、縁談の話とか祝言の話とか、してたっけ?
急展開に、脳が完全停止した。

「す、すみません。聞きそびれてしまったのですが、どなたと夫婦になると?」

「はァ!?お前、聞いてなかったのかよ!」

語気が強めで迫られたので(こ、こわい)正座が崩れて、後ずさる。
実弥さんはわたしを見開いた目で見つめていて、そして顔を覆って大きくため息をついた。

「……そうだよなァ、お前はそういう奴だった」

「?」

覆われた顔から、くつくつと笑い声が聞こえる。
ややあって、目尻をふにゃりと下げた実弥さんがわたしを捉えた。

「……お前を好いてる。だから、俺と夫婦になれ」

「……は、」

「聞こえただろォ?んで、どうなんだよ」

どうなんだよ、と言われても。

「わ、わたしですか?」

「当たり前だろ、他に誰がいんだよ」

「え、あ、えっと、でも、なぜ……?」

それは、単純な疑問だった。
実弥さんは「んー……」と目線を宙に泳がせ、それから「なんでだろうなァ」と、肩を竦めた。

「ただ、お前と一生を添い遂げてぇと思ったんだ」

「一生」

「そりゃそうだろォ。他の男になんざ渡さねぇぞ。ずっと俺の傍にいろ」

「あ……」

いつの間にか距離が縮まっていて、ぼんやりとしていたわたしの手のひらをそっと掬った実弥さんは、そのままわたしの指先に唇を寄せた。
柔らかな熱に、鼓動が早まる。

「……んで、返事はどうなんだよォ」

「ふぇ、」

「夫婦になってくれるよなァ?」

その問いに、正直な気持ちを告げる。

「あ、あの……わたし、夫婦になると言うことがよく分からなくて」

「俺もだ、っつーか、誰だってそうだろうが」

「あの、ご迷惑ばかりかけるかもしれませんし」

「夫婦なんだから気にすんなァ。病める時も健やかなる時もってやつだろォ」

「……こんなわたしで、良いのですか」

「……お前だから、いいんだよ」

ふわりと、匂やかな風がわたしの頬を撫でる。
耳元まで自分の心音が聞こえてきて、なんだか恥ずかしくて、でも、ちゃんと言わなければと思った。

「不死川実弥様」

「……」

「不束者ですが……どうぞよろしくお願いいたします」

「……ん」

刹那、お互いの唇が触れて
そのまま押し倒される。

「あっえっ、あの」

「……いいだろ?」

重なる手のひら。
初めての展開に、喉が鳴る。

「……何も知らない生娘ですが、」

「俺だって……経験があるわけじゃねぇよ。だから、痛いとか怖いとか、もしなんかあったら蹴飛ばしてでも止めてくれ」

「は、はい」

元柱の方を、一端の元隠の女が蹴飛ばすことなんて出来るのだろうか。
そんな有り得ない状況を想像して、思わず口から笑みがこぼれる。
何笑ってんだと、鼻をつつかれた。

***

甘い吐息が滲んで、夜の空気に溶けていく。

「……お前、これ」

隊士の時に負った、肩口から胸元に走っている傷口をするりとなぞられた。
慌てて隠す。

「……すみません、見苦しい身体をお見せしてしまって」

「いつの傷だァ」

いつだったか。
任務で相対した鬼にバッサリ斬られた時の傷跡だ。
その件がキッカケとなってわたしは隊士を辞め、そして隠となったのだった。

「いつかは覚えていませんが、鬼から受けたものです」

「結構深いな」

「はい。出血が酷く、快復したのは奇跡だと蝶屋敷の者に言われました」

「お前も俺も、よく生きてたよなァ」

「ふふ、本当にそうですね」

小さな笑い声が部屋に響く。
この人も、最終決戦で色々あって
わたしも、任務中に色々あって
そんな中で、命だけは落とさなかったのは
本当に、奇跡としか言いようがなかった。

「……この傷、」

首筋に唇が触れる。
くすぐったくて、目を閉じた。

「……俺がもう少し早く、お前の元に戻ってりゃあこんなことに」

それは以前実弥さんと出掛けた時に、変質者に襲われて付けられた刃物の跡だった。
とはいえ、見える位置にあるわけではないので
そんなこともあったなと、しみじみ思い出す。

「……あの時、助けに来て下さって、本当にありがとうございます」

「ああ……もう、誰にもお前を傷付けさせねぇから」

だから、何かあったらすぐ俺を呼べよ。
その一言に、こくりと頷いた。

***

薄く射し込む陽の光に、目が醒める。
身体を起こすと、下腹部に鈍い痛みが走った。
思わず顔をしかめる。

「い、ったぁ……」

昨夜のことが思い出される。
そう言えば、実弥さんとあんなことやこんなことまでしちゃったんだった。
ただ、隣には実弥さんの姿がなくて。
どこに行ったんだろうと、きちんと畳まれていた寝巻きを身にまとい、部屋を出る。

実弥さんは台所に立っていて、朝餉の支度をなさっていた。
暖かくて、いい香りの湯気が広がっている。

「あっ!実弥さん」

「うわ!?お前、大丈夫か!?」

わたしを見るなり、実弥さんは手を止めわたしに駆け寄ってきた。

「朝餉の支度ならわたしがやりますから!」

「何言ってんだ、てめぇの身体を労れェ」

「でも、なんともありません」

「なんともねぇわけねぇだろ」

「大丈夫です」

「んなわけねぇって言ってんだ」

ぐいぐいと追いやられる前にと、前かがみになって草履を履こうとした瞬間
再び、下腹部に痛みが走った。
よろけるわたしを、逞しい腕が支えてくれる。

「いた、……っ」

「おい、大丈夫かよ」

「へ、平気です。少し下腹部に痛みが」

だから言っただろ、と
そのまま膝裏に腕を差し込まれ、ぐんと持ち上げられる。

「ひゃあ!?」

「いいから大人しく寝てろって」

実弥さんはそのままわたしを抱き抱え、寝室へと歩を進めていく。

「そんなっ、でも」

「夫婦なれば、いいことも悪ぃことも全部割るもんだろォ。足りねぇところはお互い補い合えばいい」

「あ、」

夫婦。
そう言えばわたし達、昨夜から夫婦になったんだった。
今まで手の届かなかったようなとてもすごい御人と、まさか夫婦となるなんて。
まだ、実感がわかない。
わかない、けれど。

「実弥さん」

「あ?」

「ありがとう……ございます」

「……気にすんなァ」

寝室に敷きっぱなしの布団にそっと降ろされ、それから痛む下腹部に大きな手のひらがあてがわれた。
仄かに暖かくて、不思議と痛みが和らいでいる気がする。

「さっきまで米といでたからよ、ちっと冷てぇかもしれねぇけど」

「いえ……とても、あたたかいです」

実弥さんの手に、自分のを重ねる。

「なァ」

「はい」

「祝言を挙げる前に、俺ん家の墓前に……夫婦になることを報告してぇんだけど」

断る理由なんてなかった。
勿論ですと答えると、彼は嬉しそうにはにかんだ。
春風が舞い込んで、ふたりを優しく包んで
なんだか満ち足りた気持ちになった。


その風を待ちわびる

fin
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