とある、曇り空が広がる休日の昼下がり。
夏も終わろうとしているのと、昨日が雨だったということもあり、海水浴場の人は疎らだった。
少し湿り気が残る砂浜に、すぐそこのコンビニで買った小さな黄緑色のレジャーシートを敷いて、俺と、弟の玄弥は、ただ海を眺めて座っていた。

「いやどういう状況だァ」

俺の疑問符に、隣に座っていた玄弥は「兄貴が連れてきてくれたんでしょ」と、笑って言う。

「そうだけどよォ。海に来たんだから泳ぐとか足つけるとかなんとかあるだろうが」

「え、準備してきてないし無理」

「……だよな」

突発的に海へ来た俺達、だから準備もしている訳もなく。後先考えず海に入ってはしゃいだところで、帰りはどうするんだって話になる。流石に車の中が磯臭くなるのは勘弁だ。
そもそも、なんでこんなところにいるのかと言うと、玄弥が「夏らしいことしてない」なんて言い出すから、安易な考えでじゃあ海にでも行くか、と提案したのが事の発端だった。

「お前、こんなんで夏らしいことしたって言えんのかよ。なんかもっとこう、あるだろ」

「海水浴場に来たってだけで充分夏じゃない?俺、楽しいよ」

「……あっそ」

「兄貴は楽しくないの?」

膝を抱えながら、俺の顔を覗き込む玄弥。
問いには答えず、寝転がる。日差しが強くなくて良かったと思った。

「それよりお前、進路どうすんだよ。そろそろ決めねぇと、マズイんじゃねぇの」

「……今、その話する?」

高校最後の夏。これからの人生、進むべき方向、その他諸々を決めなければいけない時期で。コイツも例に漏れず進路相談の担当と週に一回は面談をしているのを、俺は知っていた。

「まあ、推薦狙いつつダメだった時に備えて勉強はするけど……」

「おい初耳だぞ、それ。どこの推薦狙う気だァ」

「あー、それは……えっと」

なんとなく歯切れが悪い。気になって目線をやると、顔を隠して苦悶していた。
まさか。
身体を起こして、詰め寄る。

「お前、県外の私立を目指してるなんて冗談言うんじゃねぇだろうなァ」

私立はともかく、県外、となると、場所によっては一人暮らしをせざるを得ないだろう。今の不死川家にそんな経済面の余裕があるとは思えない。今年入学したばっかの弟妹もいる。家計のことを考えて、思わず語気が強くなっていた。

「そっ、そんな訳ないだろ!?大体そんな金ないじゃんか、俺ん家」

慌てて否定する弟を見て、ハッとした。そんなこと、一緒に暮らしてる家族だったら分かっていないはずがない。強く言いすぎたと謝ると、大丈夫。と、少し困った笑顔が返ってきた。

「……どこの大学に行くことになってもよ、悔いだけは残すんじゃねぇぞォ」

「うん」

それにしても、つい最近まで兄ちゃん兄ちゃんと俺の後ろを着いてきたあの玄弥が大学受験とは。時が経つのは早いなと、開けた場所に似合わない、じっとりとした思いが駆け巡る。
離れないようにといつも繋いでいた手はいつの間にか俺よりも大きくなっていて、撫でていた頭はいつの間にか俺より高い位置にあって、俺の知らない世界に飛び立ってしまう弟が、なんだか遠い存在に見えて。
雲で隠れている太陽の光が眩しいのかよく分からないけれど、何故か急に目頭が熱くなった。

「……兄貴っ!」

すると、急に玄弥が頭を掻きむしって、それから俺の胸倉を力一杯引っ張った。反応出来ず呆気に取られている俺を尻目に、玄弥が言葉を紡いだ。

「あのっ、俺……兄貴と同じ大学に行きたいんだ」

「……は?」

予想もしていない一言に、思考が追いつかない。ポカンとしている俺を全く気にせず、目の前の野郎はまくし立てていく。

「勿論、今の俺の頭じゃ合格出来ないって分かってるし、数学や英語が難しくてこんなん社会に出て何に役立つんだよって思うし、世界史や地理は覚えることばっかだし政経なんて興味ないし」

「お、おい」

「無謀だって、無茶だって、進路担当の先生にも言われて、毎回毎回志望校変えろって言われて、でも諦めたくなくて、勉強、頑張ってるけど……」

「……」

「……」

寄せては返す自然の音が、辺りを包む。

「……けど、なんだよ」

途切れた言葉の先が気になって尋ねると、胸倉を掴んでいた手が、弱く離れた。

「……もし、合格したらさ。昔みたいに、よくやったって、頭を撫でて欲しいんだ」

照れくさそうな、ばつが悪そうな、気後れしているような、とにかく今にも泣き出しそうな顔で、そんなこと言いやがるから。
ああ。いつまでも、どこにいても、何歳になっても、こいつは俺の弟なんだなと、当たり前のことを思った。

「大丈夫だ」

何が大丈夫かよく分からないのに、口から自然とそんな言葉が出ていたのは、どんな時でも、何があっても、俺はコイツの“兄ちゃん”だからだ。

「兄ちゃんがどうにかしてやるから」

口にした後、昔にコイツとそんなことを約束したような錯覚に陥る。気のせいかもしれねぇが、なんとなく同じ台詞を言った覚えがある。子どもの頃とかじゃなく、もっと昔の話だ。そんなこと、あるわけないのに。

「どうにかって何、」

玄弥が俺の台詞にぶはっと吹き出す。よく考えたらどうにかなる問題でもなかった。急いで付け加える。

「えーと、つまりアレだ。本気で俺と同じ大学に行きてぇなら、俺が使ってた参考書とか、問題集とか、クローゼットから引っ張り出してやるってこった」

「え、それ地味に嬉しいかも。新しいの買おうと思ってたから」

「買う必要ねぇだろ。しかも現役教師が傍にいるんだからどんどん頼れェ」

「え、でも仕事は」

「ばーか」

拳を作り、心配そうに見つめる玄弥の胸元を軽く小突く。

「兄ちゃんはお前が笑ってくれりゃあ、それでいいんだ」

俺の大事な弟。
どうか、ずっとずっと


ただひとつの祈り


笑って幸せな日々を過ごせますように。