返信が遅れて大変申し訳御座いません。お久しぶりです、みおさん。
朝だろうが昼だろうが夜だろうが深夜だろうが、私は声をかけていただければとても嬉しいです。いつも私の日記に反応をしてくださりありがとう御座います。
脳死については、本当に賛否両論ですね。
『日本人は海外の人から臓器を奪う存在として見られている』というのを聞いた事があります。これは勿論偏った意見で、極少数の人間を表す言葉です。しかし日本は自国で移植をせずに海外で移植をする、というのは事実なので、その偏見が生まれるのも致し方ない事ではあります。
尤も、海外に求めるのであれ、国内に求めるのであれ、人の死を望んでいる事には変わりありません。
私の友人は今回の法案の可決により、海外へ求める率が減少するだろうから『日本の肩書きにとっては』良い法案だと言っていました。
私の中での賛成意見は、脳死になった人の介護者が疲れや未来の悲観から心中をする事があり、脳死者がドナーとなれば介護から解放されるので、心中をしなくて済むからというのが理由です。つまり、介護者が堪えられなくなった時に脳死者をドナーとすれば、介護の苦痛や疲れから逃れられるという事です。
ドナーになるという事は即ち、己を犠牲にして人を救うという、キリスト教で言う善人的な行いです。つまり介護者は善意的に見える行為を脳死者に行わせる事によって逃げ道が作られるから、多少の罪悪感は持ったとしても、建て前は得られるのです。
ですから、脳死の法案は、介護者への救済処置としての法案とも見られるのですよ。
私の意見を見ればお分かりでしょうが、『脳死は人の死』というのは完全に人間のエゴだと思っております。受け取り手と介護者の利害関係が成り立つものなのだと考えています。
むしろ、臓器移植自体がエゴなのでしょうね。臓器を作り出す(幹細胞や、心臓の筋肉は研究段階であれ作られています。それが完成する)前に、移植を可能にしたのがそもそもの間違いなのだと考えています。
人から貰う物というのは、いつか人から奪う物になりかねません。そこに今回は命が関わっているから、厄介なんです。脳死の人でも触れれば温かくて柔らかくて、爪や髪が伸びて、胸が上下して……確かに生きている人の命です。それを停止させるのは命を奪うのと何ら変わりません。
さて、私の家族は脳死になった時は人工呼吸器を付けないと数年前から話しています。その時の情に流されて延命処置を施され、自由に死ぬことすら出来ない上に家族にも負担になるという現実があるからです。また、生きて家族の負担になるくらいなら死にたいという我々のエゴです。
みおさんが、家族が脳死になった時に延命を望むのは家族を愛しているからです。私自身、家族が脳死になった時、家族が死を望んでいると知っていながら延命させてしまうかもしれない人間です。私も、家族を愛していますから。
ただ傍にいてくれるだけで、ぬくもりがあって、存在があって、それだけで幸せにしてくれる家族をどうして切り捨てられますでしょうか。
しかし、切り捨てなくてはいけない選択肢がいつか来るかもしれません。
私はまだその覚悟を持っておりませんが、来るとも知れないその時の為に、家族内でそういう話をしております。
みおさんの手紙を読んで、医者の苦悩に胸が痛くなりました。人の命を救う医者に対して、呪咀のようにまだ誰か死なないのかと遠回しであれ言う親。倫理感と道徳に挟まれて、医者は何を思うのでしょうね。
国会は椅子さえあれば良い人間が多い世界です。それは、二世三世が居るからです。親が国会議員だから、というのでなっている者が多い世の中は、世間知らずが多いという事です。一般から伸し上がった者のほうが世界を知っています。なのに世間知らずが、裕福で苦労を知らない者たちが、法案をてきとうに可決して、その法案を求めた者達に良い顔をして、清き一票を求めているのです。
……政治批判はしても仕方ないですね。私達一般人と政治家は、あまりにもかけ離れていますから。
さて、共通点の多さに私も嬉しさを感じております。
他にも色々共通点があるかもしれませんね。
まず、思考に似ている部分があって、嬉しかったです。
もっとお話したいので、是非またお声をかけて下さい。みおさんの手紙は私に沢山の事を教えてくれますし、あたたかい気持ちにさせてくれるんですよ。
と、こちらも物凄く長文になってしまい申し訳御座いませんでした!
しかも暗い内容ばかりで申し訳ないです。
けれど、こういった内容で話し合える方がいる私は幸せ者ですね。本当に嬉しいです。
それでは、ここまで長々と失礼致しました!
またのご来店を心よりお待ちしております!