この手の歌を聞くと、少し前までは、胸のすくような思いがしたものだ。
けれども、今では暴かなくても良いことが世の中にはたくさんあるんだという、かつては「人の言い草」でしかなかったことに共感してしまう。
「結局あれだにゃ、」以降に続く言葉がきっと真実で、嘘の積み重ねで個人と、人間関係と、そして社会が出来あがっており、真実を突き付けることが決してそれらのためにはならない、いいことではない、と逆説的に思った。
でも明らかに妄想の中にいる人は元の世界に戻したい気分があるけどね…何故なんだろう。
それすらエゴなのか、それとも妄想が高じると危険だからなのだろうか。
親から聞いたという、戦争時代の話をして「それが現実なんだ」でしめる人がいるという。
私にとって、「それが現実なんだ」という言葉は、2chで社会や人間関係や勤労(笑)といった社会的義務から逃げ出している人を嫌な気持ちにさせるために使われている常套句で、それ故に反感と不快感を感じる。
けれども戦争体験をその言葉でしめくくることは、結局のところ政府批判なのだ…と同居人は言い、拘っていた。
「それが現実なんだ」とは、何一つ現実を変えられなかったことに対する後悔なのかもしれない。
また、あがいても悲惨すぎる現実は変えられないと言いたいのかもしれない。
あまりにも「自分以外の要因」が大きすぎて。
それを自分自身の責任を放棄しているのだと同居人は受け取るのである。
(ちなみに、前日に「戦争責任は誰にあるのか」という疑問も呈されている。
それについては同居人自身の考えがあるらしいが。)
私が今から言うのは極論なので、自己満足と思ってほしい。
いかに先祖とはいえど他人である。
私の父でさえ、戦争を経験した世代ではない。
父が戦争のことを語ったり、拘ったりするとき、母はあまりにもそれが何度も繰り返されるので、「あんた自身は戦争を知っとるのかね」と言う。
もっとも、それで堪える父ではないが。
私はそれぞれの主観的事実を聞く人がそのままに受け入れる以外他ないと思うのである。
いかに最大公約数や、証明されたことと違おうと、その人が経験してきたこと(苦痛も楽しさも)は本物なのだと思わなければ気の毒である。
だからといってお金を払えとか謝れという話はまた別である。
そして、「日本人としての戦争責任」が仮にあるならば、何世代後まで我々はそれを受け継ぐのだろう。
既に受け継ぐのを放棄しているっぽい人もいるような気がするが、それはどうする気なのか?
(全員に責任があるなら、全員が受け継がなければ負担が偏るのではないか?)
よく分からないがその「現実」が今もなお、同居人その他を苦しめているようなので、自分が思うところを綴ってみた。
間違いないのは今なおこれを語ることで怒りその他を刺激される人間がいて、かなり危なくて鬱陶しい話題であることである。
だから毎年夏にこれを扱わない。
何も思わないからではなく、嫌だからである。
追記:自分自身が時々無意識に「ドルバッキー」になっている気がする。
だから疎まれるんじゃないか、とも。
蛇足だが書き忘れたので付け加えておく。