続きです。
ユーリは困惑していた。
自分のことを抱き締め、良かった、と繰り返すこの少年は一体誰なのか。
会った事などない筈だ。一度でも会っていれば、きっと覚えている。
今、自分達を照らす太陽の光よりも眩しく輝く金の髪、その太陽を浮かべる青空よりも澄んだ蒼穹の瞳。
何もかもが自分とは違う。
違いすぎて強烈な印象を与えたその姿を、忘れる事なんて絶対にないと思った。
受け止めるから、と広げられた腕に、その笑顔に不思議と心が安らいだ。
こいつなら大丈夫。信じられる。
根拠もなくそんなことを考えて、いつの間にか彼の胸へと身を踊らせていた。
本当は、降りられない高さではなかった。でも何となく、彼の言う通りにしたかった。何故と聞かれても答えられない。ただ、そうしたいと思った。ごく、自然に。
自分を受け止めた少年は、結局支え切れずに派手にひっくり返って、その瞳がこぼれ落ちるんじゃないかと思うほど目を見開いて、口をぱくぱくとさせて驚いて、かと思えば真っ赤な顔でこちらを見つめたきり黙ってしまって。
…まさかこいつ、オレのことあの猫なんじゃないかとか思ってたりして。
信じられない、といった様子でじっと見てくる視線があまりに真っ直ぐすぎて、ユーリはついそんな事すら考えてしまうほどだった。
遅れて木から降り立った子猫を見て『あの猫だと思った』と呟く彼の姿に、やっぱりそうだったかと思うともうおかしくて、笑いを堪えることが出来なかった。
声を上げてこれほど笑ったのは、久しぶりのような気がする。
笑われて我に返った金髪の少年は少し腹を立てたようだったが、すぐにまた先程と同じ真っ直ぐな瞳でユーリを見つめ、その名を口にした。
ユーリは困惑していた。
自らをフレンと名乗った少年に、やはりユーリは覚えがない。
だが今こうして自分を抱き締めて『良かった』と繰り返すフレンは本当に嬉しそうで、こんなに喜んでいる理由も分からないというのに、何故かそれはユーリに非常に心地好い感覚を与えている。
だから知りたいと思った。
このふわふわした感覚の正体を。
フレンという人間のことを。
首に回された暖かい腕を手離すのは名残惜しかったが、ユーリは自由にならない両手をなんとか上げてフレンの肩を掴み、少しだけ力を入れてその身体を押し返した。
そこで漸くユーリから身体を離したフレンと真正面から向き合うと、瞬く間にフレンの顔が真っ赤になる。
何事かとユーリが思う間もなくフレンが勢いよく頭を下げたので、ユーリは呆気に取られてただ目の前に揺れる金色の髪を眺めていた。
少しの間そうしていたが、フレンはそのまま動かない。
痺れを切らしたユーリが僅かに身を乗り出したのと、フレンが勢いよく顔を上げたのはほぼ同時だった。
「何やってんの、おまえ」
「ご、ごめん……!」
「…………」
「…………」
お互いの言葉が重なってしまい、同時に沈黙する。
先に口を開いたのはフレンだった。
「……えっと、ユーリ、だよね?」
ユーリが怪訝そうに眉を寄せる。
「おまえ、さっき自分でそう聞いたじゃん。オレも、そうだって言ったよな」
「う、うん…あの、ごめんね、何度も抱きついちゃって」
「……別に」
それで『ごめんね』か。
しかし、改めて言われてしまうとどうにも気恥ずかしくてつい口調が素っ気ないものになる。それをまた、フレンは気にしたようだった。
「ううん、本当にごめん。……でも、あの、ユーリって…」
「なに?」
「…何でもない」
「何だよ、気になるだろ。言いかけてやめるなよ」
「ごめん、ほんとに何でもないんだ!」
「嘘くせーなあ」
「そ、それより!ユーリはなんで、大人の人達から逃げてたの?みんな心配して、ずっと捜してたんだよ」
僕もね、とフレンが言うと、ユーリは表情を曇らせた。
「それは…」
「…ユーリ?」
俯いて下唇をきゅっと噛むユーリの姿に、フレンは胸を締め付けられる思いだった。何気ない質問のつもりだったのに、ユーリは何故か苛立たしげで、それでいて酷く辛そうな様子だ。
こんな顔をさせたいわけじゃない。
こんな顔が、見たいわけじゃない。
フレンは慌ててユーリの手を取り、俯くその顔を覗き込みながら必死で謝っていた。
「ごめん、ごめんねユーリ…言いたくないなら無理に聞かないよ。何か理由があるんだよね?だから顔を上げて…!」
「…フレン…?」
「ごめんユーリ、もう聞かない。君が無事だったからいいんだ」
「うん…」
「でもね、みんなが心配してるのは本当だよ。お母さんもとても…不安そうだった」
泣いていた、とは言えなかった。そんな事を言ったら、余計ユーリを困らせてしまうと思ったからだった。
「だからもう、みんなのところに帰ろう。僕も一緒に行くから」
「…わかった」
ユーリが顔を上げて頷いたので、フレンはほっと胸を撫で下ろした。
しかし、ユーリは何故かまだ微妙な表情のままでフレンを見つめている。
「ユーリ?どうしたの?」
「あのさあ」
「うん?」
「いい加減この手、離してくんない?」
「え…」
そこでやっと、フレンは自分が先程からずっとユーリの手を握りっぱなしだったことに気が付いた。慌てて離した両手を後ろに隠し、またも赤面して俯くフレンにユーリは少々呆れた様子だ。
「おまえさあ…何?スキンシップ不足?触るの好きなの?」
「ち、違っ…!あ、ご、ごめんっっ!!」
「いやいーんだけどさ…。さっきからそればっかだな、おまえ。謝んなくていいってば。…変なやつ」
「へ、変?」
「うん、変。勝手に人の心配して、勝手に喜んでさ。最初はどっかで会った事あったっけとか思ったけど、初対面だよな、オレ達」
「…うん、そうだよ」
「何でそんなに必死でオレの事捜したりしたんだよ。別に関係ないじゃん、おまえに」
「僕もよくわからないけど…。同い年って聞いてたし、引っ越して来たばかりなのに何でいなくなったんだろうとか、お腹空いてないかなとか考えたらなんだかとても心配になったんだ。だからパンを取りに帰って、そしたら…」
フレンが目の前の楡の木を振り仰ぐ。つられてユーリも背後の木を見上げた。
「そしたら、家の前にあの子猫がいたんだ。まるでついて来い、って言ってるみたいで……子猫を追いかけたら、ここに着いた。この木の上から鳴き声が聞こえて」
「猫の、だろ?…おまえ、オレを捜してたんじゃないのか?」
「そうなんだけど…。何でだろう、その時は子猫を捜さなきゃ、って思ってたな…」
「何なんだよ、テキトーだな」
「でも、結果的には君を見つける事ができた。だからあの子猫には感謝してるよ」
そう言って笑うフレンは、ユーリを見つけられたのが本当にあの子猫のおかげだと思っているのだろう。
それにしたって、こいつは猫に向かってあんなに必死に呼び掛けていたのか、と思うとユーリは少しばかり残念な気持ちだった。
てっきり自分に向けて言ってくれたんだと思っていたのに。
初めの頃のふわふわした感覚は、すっかり鳴りを潜めてしまった。ユーリは目の前で笑うフレンに聞こえないように、小さく溜め息を吐いていた。
「ほんと、変なやつ…」
「何?ユーリ、何か言った?」
「何も言ってねえよ。…腹減ったな、って思っただけだ」
「あ、そうだった!やっぱりお腹空いてるよね?良かった、パン持って来て!」
この辺に置いた筈だけど…ときょろきょろし始めたフレンだったが、すぐに目的のものを見付けるとそれを手に取り、包んでいた紙を開いて中身を取り出して見せた。
「ごめんね、これしかないんだけど…」
手にしたパンを半分に割り、片方をユーリに差し出す。
「はい、半分こして食べよう」
笑顔のフレンからそれを受け取り、ユーリは神妙な面持ちで掌の中の小さな塊をじっと見つめた。
「ユーリ、どうしたの?食べていいよ?」
「…ん」
一口囓ったそのパンは少し乾燥気味で、ユーリの口内の水分を容赦なく奪っていく。一度にあまり口に入れられなくて少しずつ食べていたら、フレンがじっとこちらを見ている事に気が付いた。
「何だよ、じろじろ見んな」
「あ、うん…。ユーリ、もしかして美味しくない?」
「…そんなことない。ちょっと、パサパサはするけど。おまえは食べねーの?おまえだって腹減ってんだろ」
「うん、じゃあ僕も」
いただきます、ときちんと言ってパンに囓り付いたフレンを見て、ユーリは今更ながらに少しだけ恥ずかしくなった。
いただきますの挨拶どころか、自分はフレンに礼すら言っていない事に気が付いたのだ。顔が熱くなるのを感じた。
見ず知らずの自分を探し回り、食べ物まで分けてくれたというのに。
とにかく、礼だけは早くしてしまおう、と思った。
「あのさ、フレン」
「何?ユーリ」
「…ありがとな。その、色々と」
「そんなの、気にしなくていいよ。それよりも、お願いがあるんだけど…いい?」
「え?お、お願いって、オレに?」
「うん」
既にパンは食べ終わってしまった両手をはたくと、フレンは右手をユーリに差し出した。
少しはにかんで、でも真っ直ぐにユーリだけを空色の瞳に映している。
「僕と、ともだちになってくれる?」
同い年の友達、欲しかったんだ、と笑うフレンが眩しい、とユーリは思った。
「――ああ、いいぜ。てか、わざわざそんな事断るなよ。真面目だなあ、おまえ」
ほんと、面白いやつだな、と笑うユーリがとても可愛らしい、とフレンは思った。
二人共、友達になってこれからもっと、お互いの事を知りたいと思っていた。
その後フレンがユーリと共に下町に戻ると、ユーリの母親が駆けて来て強く彼を抱き締め、それから何度もフレンに礼を言った。ユーリはそれが恥ずかしかったのか、母親の腕から逃れると少し離れたところからフレンに軽く手を振り、さっさと背を向けて行ってしまった。
ユーリがどこに住んでいるのか聞きたかったが、何やら忙しそうな大人達の輪の中にはそれ以上入る事ができず、仕方なくフレンも家に戻る事にした。
明日、朝一番でハンクスさんのところに行って、ユーリの事を聞いてみよう。そうしたら下町を案内してあげるんだ。
そんなことを考えながら歩いていると自然に笑みが零れ、石畳を蹴る靴の音すらも耳に心地好い。
きっと仲良くなれる、もっと仲良くなりたい。
「早く、明日にならないかな…」
これ程までに、明日を待ち侘びた事はないように思った。
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続く