「…マスター、熱いとかそういうのはないですか?」
「ん、平気。ありがとねルカ」
お風呂上がりにとルカに髪の手入れをしてもらい、今はルカと二人で鏡に写される形で向き合っている。
事の起こりはミクとの出会いの話をした後、風呂上がりにドライヤーとブラシを持ってルカに待ち伏せされていたのだ。
『…マスター、少し二人でお話しませんか?』
この時のルカの表情といえば、憂いを帯びた苦し気でくしゃくしゃになっており、気が紛れるならと私の髪を好きに弄らせることにした。
正直、あの話を聞かされた後では落ち込むなというのは無理があると思う。ドライヤーの乾いた音が化粧台の前で鳴り響いており、ブラシを通す感触がなんだかくすぐったい。
「それでルカ、少しは気が紛れた?」
「…正直のところ、まだ何とも言えません。ミクさんの話を聞いて、私はどうしたらいいのでしょう?」
相当重症のようである。手を動かしながらも言葉のキレは悪く、鏡に写るルカの姿はとても見ていられるものではなかった。
「ねえ、ルカ。正直ミクのことどう思った?」
それでもこの雰囲気で沈黙はまずいと口を開く。思い詰めたまま黙っているのが、一番精神衛生上良くないと思ったからだ。
そこで初めてルカの手が止まっていることに気づく。鏡越しでは俯いているルカの表情は読み取れず、今はルカが話してくれるのをじっと待っていた。
「…分かりません。私がミクさんをどうしたいのか、どうすればいいのか」
持っているブラシがカタカタと揺れており、鏡越しでもルカの葛藤が伝わってくる。私はふとミクにルカの印象を訊ねたことを思い出した。
「あのねルカ。私達が出会った頃にミクにルカの印象を聞いたことがあるの」
『ミク』という言葉に反応して、ルカはそっと顔を上げる。赤みがかった瞳は静かに泣いていたことを物語っていた。ルカが自分のことように泣いてくれたことがミクの過去が決して無駄ではなかったような気がして、どこか安心している自分がいる。
「笑顔が素敵な人ですねって…、だからミクはちゃんと自分の意思で過去を乗り越えてくれたんだって思ってる。
あとはルカ、貴女の瞳にミクはどのように映っているの?」
私はミクが赤子が自力で立ち上がったように成長したということを伝えたかった。だから、感情が芽生えなければ言えなかったことを淡々と告げていく。
「…ミクさんがですか」
「ええ」
ミクの言った言葉が胸に響いたのか、ようやくルカは口元を綻ばせていた。凍るように固まっていた腕も動き出して、なんだかいつも通りの落ち着いた表情を取り戻したみたいだ。
「…そうですね。ミクさんのお話を聞いた時には頭がぐちゃぐちゃになって、あまり考えられませんでしたけど…」
「けど…?」
「前にマスターの言っていた事を思い出しました。今も昔もメイコさんはメイコさんだと。大好きな気持ちは変わらないと」
「そう…」
適当に相槌を打ちながらルカの話に耳を傾ける。吹っ切れたのか、靄がかかっていたような表情はすっかり晴れ渡っていた。
「…ミクさんはミクさんですよね。マスター、ありがとうございます。もう大丈夫です」
「よかったわね。それとねルカ、貴女が来てからミクはよくおしゃべりしてくれるようになったのよ。主に貴女のことばかりね」
「…そうなんですか?」
今度はぱちくりと瞳を瞬かせてルカの手が止まる。なんだかルカの気の抜けた表情は珍しいからとても新鮮だ。
私は振り返り、ルカと向き合うと表情を崩して話を続けていく。
「ええ、そうよ。ルカが来てからミクはもっと表情が豊かになっていったわ。もちろん、歌に厚みもね。
私とメイコが出来なかったことを貴女はやってくれたの。ホント、妬けるわね」
「…そんな」
困惑気味に狼狽えるルカの姿は本当に珍しい。それだけミクのことを想っていると思うと自然と笑みが溢れてきた。
「だからミクのことよろしくね」
「…はい」
照れ臭そうにルカが頷いたところで、ミクが勢いよく部屋に飛び込んでくる。
「あーっ!マスターずるいです。わたしもルカさんに髪の毛いじってほしいのに!」
それまであった少し重苦しい空気を豪快に吹き飛ばしたことが妙にツボに入って、私はつい肩を震わせていた。ルカを見れば口元を押さえてなんとか堪えているようだ。
噂をすれば何とやらというやつだろうか。
「え、え?わたし、なにかしちゃいました?」
私達の態度に目を白黒させて、ミクは私達を交互に見やる。それまでの強気の表情が一転、急に気恥ずかしそうに指先を合わせていた。
「なんでもないわ。ね、ルカ?」
「…はい、ミクさんに元気を分けて貰いたかった時にミクさんが現れただけですから」
始めは怪訝そうに私達を見つめていたものの、ルカの一言に納得したようでミクはすぐに表情をぱあっと輝かせる。
すぐに私達の下に歩み寄ってきてギュッと抱き着いてきた。
「ルカさん、マスターのお手入れが終わったら次はわたしをお願いしていいですか?」
「…もちろんです」
「それじゃ私はルカの髪の毛をいじってみようかしら?」
「………マスターはずるいです」
ふてくされるように不満で頬を膨らませるミクがとても可愛らしい。初めて出会った頃と比べて、すっかり感情豊かになっていくミクを見ることは何物にも変えがたい幸福感を感じていた。
「歌えない歌姫と不思議な感情」の後日談みたいな話になります
ルカの中でごちゃごちゃに渦巻いていく感情を悩んで悩んでいったんだろうなということを書きたかったんですが、書くのはとても難しかったです