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安易な言葉に飛びつくこと

2月初旬。旬は受験らしい。さんまの塩焼き食べたいな。



雑草物語/大島弓子 絵が好きで入ったけれど、ストーリー展開も好き。太宰治のきりぎりすの逆バージョンという感じ。



知り合いの人がサブカルチャーと呼ぶのをやめにしないかと提唱していた。賛成でしかない。映画を見た人は口を揃えて感動したと言う。まったく意味がわからない。で、なんなの?という話だ。簡単な表現を繰返し多用して本来の良さを打ち消してしまう。自分が一生懸命作ったものにたいして「めっちゃ感動した!」と言われたらどう思うだろうか。言葉を選ぶときの選択肢の数を増やすことも、ときには必要だ。もちろん不必要なときもある。滝を見て論理的に解説されてもね(この場合だと表現というより描写ではあるが)。芸術作品の前では知識よりも第一印象を大事とするほうが好きでいたいから、この簡単な表現で終わる風潮早く変わってほしい。



もっとも、芸者家は自己の過去や背景を作品に投影してる場合もある。その場合、読み手は作者本人ではないため、わかりっこない。どうしたって作者に先行するのは不可能であり、追体験するしかない(とらドラで大河が、人の気持ちを勝手に決めつけるなと一喝することと似ている。他人はどうしたって理解できないが、寄り添うことはできる。この場合も、寄り添う時点で追体験的)。だからこそ、歴史を振り返ることで知識が増えることにより、追体験をより良いものにすることができる。ただそれは第一印象のインパクトに対する証拠という安堵と、驚きや悲しみを支える副次的なものに過ぎないのでないだろうか。


今日も新しい本が手元にあり嬉しいかぎり。
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