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感動って言葉カッコ悪いよ

感動したと言われたら素直にショックだ。髪を切ったあと「かわいい」と言われるのと同じ。なにがかわいいの?となる。感がどう動いたの?まずそれを知りたい。


感動した病が流行っているのなら、感動したと言わせない作品作りをする人もいるかもしれない。聖の青春はそんな映画。僕たちは客席に置き去りにされていた。画面へとは近づけなかった。映画は、村山聖への敬意と命だけを描いていた。だから僕は感動したなどと言うことはできない。命を目の前にしてそんな甘ったるい言葉は失礼極まりない。村山君に怒られる。




みんな必死に生きてるつもりで必死でない。それでも前だけを見て、何かを追い続ける。

隅っこに、光る転がる居座る。

この世界の片隅に。


強く生きるという言葉は大抵無責任だ。生きることだけでも大変であるのに、強くだなんてできっこない。強がって生きることは簡単だけど。


のほほんとしてる女の子の戦時中の話ってあまりないのでは。戦争映画に出てくる女の子は強気で負けん気MAX乙女ばかりな気がする。泣いて笑っての綱引きだったんだが、戦争映画で笑うことなんかあまりないよなあと。トンマッコルとかはわざと面白いシーン入れていて不自然であったけど、この世界の片隅には笑うシーンは人間味に溢れていた。



みんな、つらい、みんな、しんどい。そんな時代の中で垣間見える笑顔は、なんだか最強だよね。娯楽がなくたって、先が見えなくたって。いまをいまだけを生きる美しさは観客にしかわからない。大きいスクリーンは、わかりやすく生きることの美しさを教えてくれた。


悩みはつきもの。自分で影を振り払いながら進むしかないの。髪を切るような感覚でね。落ちてくるものがない現代はなんてしあわせだろう。体に降り注ぐニュートリノを僕たちは感じない。裸の枝に降り注ぐ酸性雨を僕たちは体感できない。それでも生きているのだから、僕たちも枝も最強だ。



最強なんだから弱音に飲み込まれるな!

きらきら光る

夜空の星。きらきら星変奏曲。フランス語の原題によると恋の歌なんだよね。


きれいな星たちがきらきら光って見えるのは空気が動いているから。じゃあきれいってなんなんだろう。刹那的なものをきれいとでも言うのだろうか。もし太陽が今この瞬間に消えても、わたしたちは約8分20秒後にしか気づくことができない。太陽が滅んだきれいさでさえ後から知覚する。刹那なんか嘘っぱちかもしれない。星も太陽もいつだって過去の鏡なんだ。



動物農場/ジョージオーウェル


動物たちの反乱。ルールのつけ足し。世界をシニカルに見つめていくことは、ポジティブの裏側になくてはいけないもの。頷くためには犠牲がないといけないんだ。HEYジョージ、ナポレオンはやりすぎだぜ。

ガリレオガリレイ

地球や世界を考えると、ガリレオをなんとなく思い浮かべる。ちっとも詳しくなんてないのだが、浮かんでしまう。


ゆりっぺが「世界は回ると言うけれど」と歌うように、世界は回っているがしかし、太陽を中心にして回っているわけでもある。自転と公転の話であるが、あまりにも壮大な話だ。世界は回りながら回ってるというわけ。さぞ目が回って大変だろう。


定点で空を見続けたことがない僕にでも、朝あった空が次の日にはちょっと変わっているような気がする。可視化できるものはあまり怖くない派会長であるので、自転は怖くない。だが、公転は怖い。目に見えないから、と思ったが四季があるじゃないか。四季は公転の証拠である(正しくは自転も関係あるのでどうか専門書でも)のであんまり怖くないね。書いていて思い出したのは、クレオパトラが死んだ夜の空と今の空を比べてこんなに動きました!ジャーン(弾いたのはベンジー。最近聴いてないな)という展示があったなあという話。



ロマンチックに気を付けて。ウォールフラワーでエマ・ワトソンが屋根の上で「ロマンチストよりリアリストよ」って言ってたから。



ひさしぶりに映画の話。TSUTAYAに行ったらマジックインムーンライトが出ていて、あ渋谷のお気に入りの映画館(いっぱいあるのだけれど、確かBunkamuraルシネマ)を思い出した。TSUTAYAでスノーホワイトを借りて(最近の映画だなあムシャムシャ)、ムービープラスでエンドオブザワールドを観て(あ、ここで終わるとお後がよろしい)、怒りをみた。


映画なんか一生に一本でよいと未だに思ってはいる。観てしまうのはわしの情けなのにゃ(なーんてな)、と敢えてニャースではなく和久さんにしてみた。それは置いておき、マジックインムーンライトも怒りも映画だ。どっちが良いかは知らない。怒りは良い映画だとよく聞くが、良いと落としこめる人は羨ましい(皮肉ではない)。僕はそこまで物語を噛めない(前歯が少し動揺しているらしく噛み合わせと一緒に毎晩マウスピースがんばろうえいえいおー)ので、涙は出たが、水分が自分になかなか降りてこないのだ。



それでも噛み締めて生きていくのが人間だもの的人間であるので、噛みましょう食べ物を。


いやまあ、ガリレオガリレイだと最近は青い栞だねって終わり。

蟹は多分寒い

飛んでいくのは邪念か否か。風に乗り、悪意は空へと帰っていく。はてさて、漂う風は洗われたあとの体だろうか。


金子光晴のくらげの歌という詩がある。くらげだって辛い。疲れている。気楽に漂ってるわけではない。彼はそういったことを書いている。鮫、蛾といったものを主題に書くつらさに抗い、時代にも抗った人だと思う。魚は、新鮮さが命。彼の詩は、美しいものをとじ込めるのがうまい。言葉の蓋をしめるのがはやい。自然はいつだってきれいで汚いのは私達だ。


唐突に「汚い」という語彙を使ってしまうのは寒さと選挙のせいだ。多分。言葉の暴力による喧嘩ばかり。お互い救いようもない。蜘蛛の糸すらおりてこないだろうに。自分で作った糸にすがった姿は滑稽だ。そう、私達は笑うしかない。汚いの根拠はそんなもの。



今日はよくよく間違える。行き場を失った血が騒いでいるらしい。


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