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優しさとは

登山をした。

この時期の山は、死を感じる色や風をくれる。山にはやっぱり聖霊がいるよね。彼らのおかげで、最初の30分で余計な思考が剥ぎ取られて自分の深部と対話することができた。だから、私はずっと書きたかった、優しさについて書くことができる。

さて、優しさとは。

自惚れはさておき、冗談抜きで、「優しい」は生きてきたなかで一番言われた言葉だ。

親が私を定義するとき、他人が他人に私を紹介するとき、恋人だった人たちでさえ、「優しい人」と言う。


残念ながら、20代前半においては、「自分は優しい」と思って生きてしまっていた。
人の話にうんうんと共感して、たまにスパイス程度に自分の意見を伝えれば、あら簡単3分優しさクッキングの出来上がり。

その繰り返しをしていたら、誰にでも優しい人になっていた。なってしまえていた。

この優しさを私は「弱さ故の優しさ」と呼んでいる。


それに気がつけたきっかけは、辻村深月の『冷たい校舎の時は止まる』に出てくる、片瀬充との出会いだった。

当時、これほど自分の鏡では?と思うくらい自分と似ている小説の登場人物がいることに驚いたとともに、ただひたすらに悲しくなった。


優しくすることはどれだけ簡単なことか。弱いから受け入れる自分を選ぶ。そんな充を読み進めるなかで、そこにいたのは私だった。何回でも書くが、弱いから受け入れて許容することは、本当に簡単なんだよ。


そして、この弱さ故の優しさは、妥協で成り立つ。なにか言い返すよりも、受け入れて慰めてよしよしするほうが何倍も楽だ。だから、妥協なんだよ。この妥協の先には道などなく、どこまでもただの引き出しになるだけだ。


では、優しさとはなんだろうか。



私は、弱さや妥協の優しさを知ったうえで、肯定と否定の全てに責任を持ち、その言葉や態度と心中すること。だと思う。


さらに言えば、上記の内容を恣意ではなく感覚的に脳を動かせるかが優しさだ。中途半端になるくらいならやらないほうが自分のためだ。やみくもに体力を使うだけ。


誰にでも弱さや妥協の優しさを向ける力はもう残っていない。


だったら誰かに全力で言葉を使って表現する力を向けたい。それを誰かが優しいと最終的に言うのは別に構わない。優しいという言葉より、先に私が動きたい。言葉や視線と心中させてほしい。


なるほど、言葉はいつも心に足りない、わけである。


今日はここまで。この話は、生の言葉以外で書きたくないのでね。
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