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わさび

わびさび。寂しい。日本的な良さは、風情なのでは?



高校野球もオリンピックも「ストーリー」を求めすぎている。識者が「ポストモダン以後の〜」などと言い始める。物語なき現代にとって、物語は必要ではあるがとにかくスポーツに持ち込まないでほしい。




なぜなら、努力は必ず報われるから。必ず報われるものを取り上げ物語に仕上げることには違和感しかない。「報う」の本来の意味合いは、受けたことに対して、それに見合う行為を相手に行う、という意味。つまり、よくもわるくも自分に波が押し寄せるわけだ。そのなかで、よい報いのみを取り上げて物語とするのは、一種のプロパガンダ的な特徴を持ってしまう。



要約すると、ひとのことにケチつけんな!勝手に推し量って物語にすんな!ってこと。

書を捨てよ旅に出よ

人には人の乳酸菌とでも言わんばかりの個性あふれる旅行中。


僕はタイミングがすべてだと思う。 友人と言葉がかぶったりするように。理由なんかそこにはなくて、なにがあるかはわからないけれど。


喧嘩なんかモンスターボールと同じ。大事なものにはなかなか当たらない。



田舎の温泉。帰り道に大雨で電車止まる。そう、これがタイミング。結局こういうところで捕まえる。


大学生の時期は仕方を学ぶのではなく、人と自然に触れて何を感じるのかだと思う。仕方を学ぶ人、仕方を無視して奇をてらう人。どっちも作ったものはそれなりのもの。面白いってそんなに簡単ではない。

容器はなんだっていい

西加奈子が、人の外見と中身について猫の視点から描くという傑作を出した。




非常に心を撃たれた。打たれた。しばらく本が読めない(と書きつつ、山本文緒の長編を) 


思えば、陳腐なことばかりをしてきた。一年間に映画百観るとか。多読とか。実に意味はない。意味がないから良い。


そもそもだれも聞いていないのだから、教養として蓄えておけばよい。


話を戻そう。戻す話なのかは知らない。



よく言われている「中身が大事」、「いや外見っしょ」。結局どちらでもないのである。二元論的考えは非常に危険で、僕の好きな吉本隆明が善悪二元論を批判しているように、僕自身も「解釈たるもの、脆弱でよくて多種多様でよくわからない」と思いたい人であるので、どちらでもないを支持したい。それは、街頭インタビューでよくある中庸的な「どちらともいえない」ではなくて、「どちらの要素も含んだ」どちらでもない、である。自分が悪いと思っていることを、自分がしている可能性はどうだろう。自分が良いと思っていることが悪いことに変わる可能性はどうだろう。自信がないなら勉強をしていこう。机に向かったっていい。足を動かしたっていい。僕は知らない体験してないからくる悪意は、相当ひどいと思う。根拠のない自信と同じで恐怖臭がする。



自分の感覚が工場で生成されているなかで、自分が動かなければ、君は製品になる。結婚してパッケージに包まれ、名が残る。そんなのは嫌だから、僕は数えられない名詞を愛す。愛と平和は数えられないんだって。素敵。勇気も数えられないね、アンパンマン。



オリンピック、甲子園。僕は自分がしてきた高校野球を昨日感じてきた。あのころの気持ちは取り戻せないけれど、泣くことはない。ポケモンGOで皆がちょっと下を向いているなら、僕はちょっと上を向く。そう思える時間だった。日焼けがひどい。


ウイスイーが本当に美味しいから、こんな文章を僕にくれる。柔道の一本って、残酷で涙がつまっていて、そして背中がつく。ツンと鼻に残る悔しさは、自分でしか嗅げない。じゃあ抱きしめて礼をして歩いていこう。そう、ひとりじゃない。
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