さざ波

吉本隆明が、これからの詩人はありもしない「普遍的な言葉」を追求していくのだ、とか言ってた気がする。そんなことを思う季節、秋の到来である、



記憶は遠ざかり、また押し寄せる。そう、波のように。僕は濤声という言葉が好きだ。君は、海の声を聞いたことがあるだろうか?



波は伝達手段に過ぎない。声に耳を傾けないと、途端に荒れ狂う。 短気だなあと思う。僕にアニミズム的信仰はないが、ぼんやりと妖怪や幽霊は信じているので、海の声はうすらうすら聞こえてくる。



僕たちの声は、どんどんしぼんでいく。声は短命だ。ガレの陶器のように、何かに張り付く植物たちの生死の刻印に、さぞ嫉妬していることだろう。 



だが、海は違う。波の生き残りたちが、海風に乗って、僕たちの耳を撫でる。 風は財布に優しいのだとか。なんと、無料で乗れるとのこと。なるほど風に乗ってみたいと思うわけだ。そして、風になりたい。だって僕たちは、表現者であり送迎者だから。



風はじっとこらえて想いを運んでいく。彼ら彼女らの沈黙に支えてもらっていることを、僕たちは感謝していくべきなのかもしれない。

作に溺れ、人間を辞めるな

創作活動の使命感はエゴだ。基本的にやらなくていいこと。それでもやりたいなら人間を辞めるな。


人としてどうかしてることをした場合。それは、嗜好品の中毒となんら変わりはない。創作中毒で感覚が麻痺している。どうか、芸術のせいにしないでほしい。芸術はそんなに落ちぶれたものではない。ただし、芸術は、落ちていく、堕ちていく者にも微笑むのだ。ちゃんと目をみてほしい。きっと邪悪に満ち満ちている



堀江敏幸/その姿の消し方

最近読書レビューを書かない。理由は色々あるのだが、まだ見ぬ人への配慮と自分への戒めが大半であろう。他人の評価に依拠していると、偏った車輪はどんどん脱線していく。見えるはずのものに盲目になることほど、もったいないことはない。ということを踏まえても、その姿の消し方は見事だと宣伝したい。日常から海を越え、さらに詩的に素敵なベールで包まれる。最近足りない文学を彼は埋めている節がある。


映画を観ることが長くできていなかった。スポットライトやレナードの朝。足りないものを補給したよ。



ビタミンも、カシミヤも冬にボタンをする。

人肌の色

夢二の好きな色は女の肌色。


生まれたとき私は泣き皆は笑った。ならば、私が死ぬとき、私は笑って皆を泣かせたい。成程、夢二は格好が良いわけである。



絶滅危惧種と哲学と小説を読みながら資格試験の勉強をしている。孤独な限りいさかいは起きぬから楽ではある。哲学は、専らメルローポンティの研究ノートを、ひたすら自分の解釈に直す作業をしている。以下に少し書く。


私達の肉体について。これはプラトンをはじめとっくに言論がなされてきた。しかし、世界と肉体の関係性は整合が取れてないのではないかと思う。私以外私じゃないのと、そろそろゲスを極めているのではないかと思うが、唄う輩がいる。私の肉体が私であることから出発する場合、その瞬間の私は主観の極限にいる。わかりやすく言うと、私が私であると私が思い込むことは、まさに主観そのものであるということ。それ以上に主観を感じることはできない。つまり、ゲスの極みが私以外〜♪と歌うのはおっ!と思うわけでもある。話が脱線したが、私の肉体が私であることは主観性を帯びている。そしてさらに、その私の肉体は目に見えている。目が見えない人の肉体も、他人からは見えているので、同質だとここでは判断する。目に見えていることは、主観に基づいているが、客観的に描写すると「世界に映っている」のである。メルロポンティは世界と肉体はお互いを蚕食しあっている、としている。そこに異論はないが、世界は一個体として認識する場合、肉体はゼロからの出発点であるとも言っている。それは違う。吉本隆明に言わせれば、世界は水平かつ国家という概念が加わると垂直になるとしている(僕の解釈)。この場合の水平は形而上、垂直は形而下だと僕は認識している。言わんとしているのは、世界は立方体ではないから数えられない。宇宙のように広がっているわけではないが、垂直と平行の線分の長さは明らかに違うし、箱が組み立てられるとは到底思えない。世界を一個として認識すること自体がナンセンスであると思うわけだ。しかし、メルロポンティの研究ノートは膨大で、肉体の頁もまだまだある。


といった作業だが、無意味でもある。単純に脳を働かせているだけだから気にはならない。ハクスリーのSFの世界やハーモニーをわかろうとするなら、はまってしまうのもわけない蟻地獄とも言えるかもしれないが。


発表用に窪美澄を読み、休憩がてら中島らもを啜る。うっかりウイスキーの味がしたなら、それは本物だ。中島らもが愛した世界をいつまでも水平に。
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