何も考えられなかった。どう逃げ、どう走ったのか。
頭、頭。
その背なにすがりたかったが頭のまわりのものが阻んだ。ごめんなさい、ごめんなさい、頭。
謝ることはない。あちらの陣で生き帰るためには嘘も方便。
にっかと笑った頭にわたしはまたぼろぼろと泣き出した。
泣くな泣くな、爪を引っ立て逃げてきた女猫のさまではないぞ。
わかっておる、と撫でられた頭に安心した。頭、頭、大好きだ。
頭、投げ文が。
伝令係が持ってきた文を紐解くと、そこにはたったの一文があった。
逆毛の猫を貰い受ける。
くしゃり潰した頭があちらを睨んだ。
これはわしが拾いし猫、きさまにはやるまいぞ。
ぎらぎらと燃える目をした頭が大声で告げた。
みなのもの、合戦だ。
賛同する声を聞きながら、この頭の冷静さを欠くことがあちらの策ではないのかと不安に思った。
頭、頭。
心配せずともすぐに戻る。
頭、頭、行ってはいけない。呼びかけたが届かなかった。
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もっと長かったのだが。
からくり業士がおもしろかった。
頭には恋愛感情ではなく家族愛を感じていた模様。
ちなみに合戦の内容はじつにくだらない(想像力が力尽きたんだろう)。
化かし合いともいわれる合戦の当日。
頭を始めとする出陣組が合戦場に着いた。わたしと妹はこっそりついていった。
お頭さん、負けないよね。
負けない、と思うけど、断言できない。むこうの首領の目力を知っているから。
何をしている。
びくん、と震えた。振り向くと、いた。
合戦場を、見てるんです。
むこうの首領、あの屋敷のお頭。薄く笑い、待機場はあちらだと先に立たれた。まだ新しい色姑だと思っているのか、妹とついていく、が途中で別れる。
あんたは先に頭のもとに帰り。
姉さんは?
首領についていく。大丈夫、必ず戻るから。頭には黙ってるんだよ。
どうして?
合戦の前に危ない橋を渡らせちゃなんないだろう。頭は優しいからまた助けにくるかもしれない。
気づいてるくせに妹がいなくなっても何も言わない。年端もいかない女の子が何かをするなんて、何かをしたところでこの男には屁でもない。
うちの頭とおんなじだ。
強さでは。
え、と立ち止まる。仰ぎ見る位置に首領の顔があった。
強さでは、あちらのほうが上さ。業士の技量といい、主従関係の強さといい。こちらが上回っているものといえば、手数の多さと、あとひとつ。
ごくり、息を呑む。やはり男は気づいていた。恐らく、初めっからわたしが自分に従うものではないと知っていた。
何度か手のものを捉えたがその度に逃がされた。二度は手に入らぬ、それほどにあの男は独占欲が強いらしい。
するりと男の両腕がわたしの背に回る。捉えた、捕らえた、と言葉がぐるぐると回り回った。
あの男に束縛されぬ猫は久しく見ぬ。
逃れようともがくと耳打ちされた。
俺の色姑よ、頭の俺に背くまいぞ?
気づく、ここは敵陣の待機場である。年かさの色姑が目の端に入った。頭を突き放すなど色姑の行動でない。
わたしは唇を噛み締め、男の背に手を回した。男の手のひらはわたしの頭を撫で滑り腰に回る。顔が晒されていないのは幸運だったのか。
よしよし、迷ったのがそんなに怖かったか。
どっと笑いが出る。慣れない道に迷った新しい色姑を頭が連れて来た、とそうなるらしい。
あの男、どう出るかな。
振り向くと遠くに頭たちが見えた。だだっ広い平野を挟みここは、互いの陣が丸見えだったのだ。
色姑たちは別の部屋に集められた。手に仕事をつけるための講座らしい。真剣に話を聞く色姑たち、ひそひそ、年かさの色姑が教えてくれた。
先ほどの方がお頭さ。
びくり、身を震わせたが年かさは恐れからだと理解してくれたらしい。顔を覚えられたかもしれない、とわたしは思う。
顔を覚えられたら、頭の不利になる。弱みになる。
頭は迎えにきてはくれない。
隠れていろ、と言われた部屋から出、敵方のひとと一緒にいるわたしたちを頭は味方だとは思わないだろう。むしろ頭を騙したと思うだろう。
めそめそと泣き出したわたしの耳にざわめきが届く。
やあやあ、我らの姫はおらんかな。
大柄な男がひとり、腕の入れ墨を見せながら歩いてくる。
大道芸人さ。
年かさが耳打ちする。
珍しいね、お頭がいない場にくるなんて。大道芸人は上の方にしか媚びないのに。
やあやあ、美しき姫たちよ。
ぐい、と見せられた逞しい上腕に、あ、と声をあげた。
ほほう、姫さまだ姫さまだ。みなよ、姫がいたぞよ。
ぐい、と掴まれ妹とともに連れてゆかれる。年かさが笑いながら、遠くには連れてゆくでないよ、と言うのを聞いた。暇な大道芸人が新顔を連れていったとでも思っている。
ぐいぐい引かれ隠し階段を登る。カタタタタ、拍子木が鳴り、階段を下りた。
じっとしていろと、言ったのに。
頭の言葉にまたもや泣いてしまう。変化の業までして迎えにきてくれるなんて、頭はなんて優しいんだろう。
ごめんなさい。
小さな声で謝ったら、頭はお家の紋章が入った腕を見せてくれた。歪み狸、笑い狐。
逃げるが勝ちさ。近々化かし合いもあることだしな。
頭はなんも咎めない。それがうれしくって、ぼろぼろ泣いた。
箱根細工のような拍子木を並べ替えると空間が入れ替わった。襖を開けると押し入れのようだ。
首領の部屋の次の間だ、と業士は言う。うちの頭が肯く。
確かに、首領の部屋なら見つかるまい。
隠れていろ、と念を押される。妹と二人着物の裾を抑え、布団の陰に身を潜める。
カタタタタ、と拍子木が鳴り空間が戻った。埃のにおいのする狭いところで息をひそめた。
忍び込みたくて忍び込んだ場所じゃないけれど、妹と二人どうしようもなくなっていたところを頭に救われた。頭たちは敵であるこの城を探っている最中で、わたしたちを安全なところに匿って探索に戻っていった。
ねえ、お頭さん、迎えにきてくれるかな。
妹がひそひそ言った。会ったばかりの娘二人を助けたうえ匿ってくれた。仲間にも加えてくれるという。
さあねえ。
このまま置いていかれる可能性は否定できない。それでも、知らない国に売られるよりはましだった。
妹と二人息を飲む。誰か来た。複数の足音と、話声がする。
頭のことは死んでも言わない。
目で妹と約束を交わした。恩人を売るなんてこと、するもんか。
がら、と襖が開く。光が届き、わたしと妹の姿がさらされる。逆光の人影が言う。
新しい色姑かい?
妹が肯いた。新しい色姑、つまりは売春婦、やはりここの首領は娘の売買を行っているのだ。
ぎり、と唇を噛んだ。売られるくらいなら死んだほうがましだ。
隠れてないでこっちおいで。食事だよ。
柔らかな声が呼ぶ。あう、とわたしは声でない言葉を発した。
下の町から逃げてきたんだろう。お頭は無理強いはしないよ。
そうさ、飯をくれ、仕事を与えてくれる。色姑としてではない生をくれるのさ。
この屋敷はそんな集まりだから。
与えられたご飯を妹と分ける。遠慮しなくていいのに、と女は笑った。
この屋敷は悪いところではないのかも知れない。首領も悪い人ではないのかも知れない。
だけれども頭に助けられた、その恩には背くまい。わたしたちを売ろうとした、屋敷の住人のことも忘れまい。
そう思ったとき、襖が開いた。
新しい娘か。
眼光は鋭く、射竦められる。逃げ出したくなるのを抑え、はにかんで肯いた。
ミドリの文房具は好き。
オジサン熱は薄れたけど、小物は割と買ってしまう。
ペットシリーズからリスを買ってしまった。ネコ柄はヒョウかチーターに見えるのでやめる。
夏シリーズのイルカが欲しかったんだけど売り切れていた。残念。