二十九、音楽と恋
音楽は涙を流していた。
だけれども音楽は泣いていることに気づいていなかった。
「そして君は泣いていることに気づきながら、ハンカチを手渡すことをしない」
海松色の客が言ったことを僕は否定しなかった。音楽は恋を歌う。愛しい人への想いを温かなことばに乗せていた。
しかし、音楽はその恋を拒絶していた。
「きっと、音楽には諦めきれない恋があるんでしょう」
やさしい女声が語る音楽を、どう思うかを訊かれ、感じたままを答えた。この音楽が聴衆を揺さぶるとしたら、春のような恋心ではなく、その裏にある切ないまでのさびしさだろう。
久しぶりの海松色の客の指名に、連れてこられたのはコンサートホールだった。僕でも知っている名の知れた歌手のライブ、最後尾の席に座り、僕たちは手を繋いでいた。他の客たちは総立ちといってもよい状況で、音楽に身を委ねることもせずに座っている僕たちは明らかに浮いていたが、海松色の客にかけるように指示された薄く色の入った眼鏡と、白のシャツに黒のジレ、タイトな紺のスカートという装いが、僕にハンディがあるのではと思わせているようだった。海松色の客は仕立てのいいスラックスにシャツという格好でもある。僕をこの席へエスコートするにも肩を掴み誘導したし、話しかけるときは僕の手を握り、耳元へ寄せた。
何かを演じているような彼の振る舞いに僕は戸惑いを隠せなかったが、それも見えない不安からくる慣れない場所への緊張だと周囲の人には思えたらしい。席を立つときもホールを出るときもさりげなく道が空けられ、気遣うような空気を感じた。それに僕は後ろめたさを感じながら、海松色の客の彼に身を委ねる。
「諦めきれない恋がわかるなら、君にも諦めきれない恋があるということかな」
食事にと連れてこられたレストランで彼は迷うことなく注文をし、僕に音楽の続きを問う。僕を「君」と呼ぶ彼は年下であるのに、雰囲気に合わせた言葉づかいが大人っぽさを出す。おそらく海松色の客はこのような場所に慣れているのだろう。「裏庭」に通う背景を考えれば至極当然のことだったが、何故だかとても哀しく思えた。
「僕は恋をしたことはありません」
そう、答えるだけで精一杯だった。
二十八、侵蝕
朱鷺色の客の指名が続いた。あの夜、薄水色の死に揺れ、朱鷺色の沈黙に揺られた夜から、二日とおかずに指名が入る。今までの客たちのなかで連続して指名してきたのは海松色の客ぐらいだったたから、拭えない違和感を抱えながらも「裏庭」の仕事をした。
海松色の客であれば解る。歳が近く、「客」というよりは夜遊びの相手のようであったからだ。ただ音楽を聴きにハコを巡るのではなく、フォーマルに近い装いをし、食事と夜を共にする日々は、自分がいかに「堕ちて」いるのかを思い知らされる。報酬がはずむにつれ、僕は少しずつだが確実に、蝕まれているような気がしていた。
だが、いったい誰に?
悪友は言う。
「手の届く範囲に助けがあるのに、どうして求めない」
僕は答える。
「泥沼が底なしかもしれないのに、どうして手を取れる?」
悪友が言う。
「巻き込まれもいいと本人がいってるんだ」
僕は答える。
「巻き込みたくないと、本人がいっているんだよ」
僕たちの会話は平行線をたどり、悪友は舌打ちをする。このバイトを紹介したのは彼なのに、最近では頻りに足を洗わせようとする。「裏庭」と彼がどのような関係にあるのかわからないまま僕は仕事を続けていた。
マダムは相変わらず仕事前に珈琲を淹れてくれ、衣装を揃えてくれる。彼女のブティックが繁盛しているのかは聞いたことがない。店舗名は【GARDEN】、しかしこの仕事は「裏庭」と呼ばれているらしい。海松色の客に聞いたその話の真偽すら僕は確かめていない。
からくり時計の下には待ち合わせの人々が集う。ストールを巻く人は少なかったけれども、僕だけというわけでもなかった。その中に「裏庭」の働き手が何人いるのだろうか。複数の僕のような人間が働いているはずだったが、自分以外のそれらしい人物を見分けられたことはない。朱鷺色のストールはとても目立つのだけれど、誰か他の人がそれを巻いているところを見かけたことはなかった。
朱鷺色のストールは回を重ねる毎に朱みを増していくように思う。縦糸に鮮やかな朱が混じるのに気付いたからだ。
ストールの意味もマダムに聞いたことはない。悪友である彼にも。僕は疑問を胸のなかでかみ殺す。だけれども疑問は消えず屍をいつまでもさらしている。
ゆっくりと、蝕まれていく。
二十七、揺れて揺られて
ゆらり、蝋燭が揺れる。僕は目を閉じた。接客中にそんなことをするのは初めてだったが、僕と彼との間におかれた沈黙は、それを許した。
薄水色の夜を思い浮かべる。月明かりが満たしたあの部屋、ベッド、横たわる薄水色の客。
繋いだ手のひらの乾き、抱き締めてきた弱々しい腕、枯れ木のような首…それらが感触とともに蘇り、僕の感情を揺らした。
「…きみ、」
朱鷺色の客が低く呟き、僕ははっと目を開けた。視界が揺れ、何か温かいものが目尻を拭う。彼の指だ、と考え至るまでに時間がかかった。指先が拭ったものが、僕の涙だということには更に時間を要した。
穏やかな風が入り、張られた薄布が揺れた。あの夜は空気は動かなかった、そう思うと涙が次々に浮かんできた。
僕は声を出さずに泣いていた。息遣いだけが荒くなり、うまく呼吸ができない。しゃくりあげそうになった時、朱鷺色の客が立ち上がった。
ばさり、僕の頭に朱鷺色の客は上着をかける。ひく、っと息を飲んだ僕の腕を掴み何も言わずに出口へ向かう。
引っ張られる格好となった僕は慌てて着いていくが、視界が狭まっている上、足がもつれる。倒れる、そう思ったとき身体が浮いた。
「…わっ、」
抱えあげられた、…というより持ち上げられた僕は、腹部に圧迫を感じた。肩にかつがれ運ばれている。朱鷺色の客の上着がずり落ちそうになり、慌てて掴む。
足を踏み出されるたびに揺れる。薄水色の客とは異なる大きな揺れに、僕は思わずしがみついていた。
朱鷺色の客は何も問わず、ただ、僕は揺られている。
夜が更け、朝になるまで。
ひょうたん池からの帰り道、久しぶりに笹山と会った。
「……」
「……」
お互いに無言のまま、私の歩幅にして約十歩の距離で立ちすくむ。笹山にとっては五、六歩の距離だろう。
くそう、長い脚しやがって、と内心毒づいていると笹山がくるりと踵を返した。
待って。
そう言うより先に体が動いた、…らしい。
気がついたら笹山にタックルをかましていたわけだ。
宮田と田間と別れて向かった先は大学近くの公園だった。神社に併設されたここに、ひょうたん池がある。笹山が産まれて拾われた場所だ。…笹山妹によれば。
ひょうたん池はちっぽけな池だ。正確にいうと池というより水溜まりに近い。いつぞやの昔はひょうたんの形をしていた池だったそうだが、今は名ばかりが残る。
ひょうたん池で拾われた。
それが真実ならなんともシビアな話だ。卵から孵って云々を無視すれば、笹山は幼少時に池に落ちたところを助けられたのだろうか。…拾われた、というならば親は迎えには来なかったのか。笹山妹もそれを見ていた、いや、落ちている笹山を見つけたのが笹山妹だったのかもしれない。
そして笹山は笹山家の養子になり、今に至る、と。
思いついた話はありふれたドラマのようだった。ドラマならきっと笹山は笹山妹に恋をし、血の繋がりがどうのと悩む。それが第一の山場で、第二の山場は実の親のご登場だ。第三の山場で想いが通じ、あれよあれよとハッピーエンド。カエル男物語完。
「…あほらし」
呟いて帰ることにした。どう考えてもカエル男には繋がりはしない。魔法使いなんて嘘っぱちだ。
だって私のは魔法なんかじゃなく。
そうしたら目の前に笹山がいた。そうしたら笹山にタックルしていた。
…どうして、こう、なるんだか。
笹山の上にのし掛かりながら立ち上がれもせず声もかけられず、目を上げた先の緑の頭を見ていた。鮮やかな緑はカエルというよりは…
「…マリモ」
「人に乗っといてそれはないでしョ」
いてて、と笹山が呻いたもんだからやっと私は起き上がることができた。立ち上がれはしなかったけど。
「ごめん、笹山」
「ったく、ラグビーすんなら草の上にしといてよ」
ジーンズ汚れちまったじゃねえか、と笹山が立ち上がる。振り向いて、座り込んだままの私に気付いた。
「…間宮?」
きょとん、と目を見開いたのは笹山だったのか私だったのか。腰でも抜けてんの、と笹山が問う。
「わかんない」
「わかんない、って…」
マリモ頭が首をかしげる。困惑を表した顔に私は泣きそうだった。
揺さぶられたりしない、と餅屋に言ったのは真実だったのだけど。