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さみしさの耐性。の話。


『水・木以外は、毎日会いたい』


↑昨日、とある男子からもらったメール。


『‥‥なんか、さみしくなるような出来事でもありましたか』


と、聞いたら、YESだと。


男子のさみしがりと、ロマンティックな感性は、抱き合わせだよなぁ。


(。∀゜*)


目先のさみしさに転んで、いちいち口説くなっつぅの。


さみしーい時に、動かせる駒って、消耗品でしかないんだよね。
あたしがキヨーサタにポイされたのも、そうゆうことなんだと思う。
ある程度見越しながら、ダイヴしたのは、あたしなんだから、自業自得なんだけど。


鈴木三重吉の追悼文で、同じ漱石門下の人物が、こう書いていた。


『漱石先生は、寂しさがなにかでごまかされる類いのものであることを知っておられた。
しかし鈴木は、寂しさを、酒や女で、無理矢理ごまかそうとした』


さみしさに向き合うには、だましだまし、歩いていくしかないんだろうと思う。

この、だましだましというのは、悪い意味ではなくて、諦念のようなもの。
さみしい自分を、なだめながら、決してそれを、誤魔化さないでいようということ。


ところで、なぜ水木以外かというと、 わたしが水木以外なら空いてます、答えたから。


水曜日→もこみち

木曜日→医龍


の、日だからです。


テレビ中心かよ!!


いくらなんでも、末期だろう!!!


と、思いつつ、クリスマスが何曜日か、しっかりチェックしたわたしでした。


よかった、少なくとも、水曜日じゃなかった‥‥‥‥‥*゜


↑オマエが一番さみしいよっ!!


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