時系列主観めちゃくちゃ。
現パロ。
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「はい、元気ですよ。回復は順調だって、先生も。表情もだいぶ、明るくなったんです……会いたがってると、思います」
寝台の横でパイプ椅子に座る、少女の声は明るかった。
帰り着いた場所で、多少の悶着と変化を経て。
俺達は、それなりに平穏な暮らしを送り始めた。
「この前行ったら、病室を抜け出してて。勝手に、リハビリを通り越した、筋トレなんかを始めてたりして……気が早いと思いません?」
小僧は程なく退院するらしい。
膝の上で両手を握り声を詰まらせつつ話す少女の報告を聞きながら、俺は奴の様子を窺う。
「よかったあ。外科と精神科の往復をさせちゃう、なんてこともないね?」
何の淀みも無い、奴のおどけたような声が白い室内に響く。
少女は否定するように慌て、
「ゆっくり療養してください」
と、真摯な労りの眼差しで返した。
奴は養父から虐待を受けた末に精神疾患へ至り、前後不覚で彷徨い出たところを、失踪直前に連絡を受けた俺が連れ戻したことになっている。
カルテにはよく耳にする病名が書かれ、奴を待っていた者達は取り敢えずよかったと安堵の笑みを浮かべた。
当の養父は、まだ帰らない。
元より行き先も不明に家を空けがちで、唯一の親族らしい親族が疾病により記憶が欠落していたり混濁している有様では、捜索願いも出されない。
そう、解釈されている。
奴は日常を繰り返しながら、しばらくは「現実」を取り戻すために生きることになるのだろう。
そして俺は、沢山の秘密を抱えたまま、この先を生きるのだろう。
病院の玄関を抜けると、冷たい風が吹き付けた。
枯れた葉を落とし始めた枝が、薄青い空を掻いた。
冬がそこまで迫っている。
真っ白な寝台に落ちる、格子模様の淡い日差し。
空気を渡るその光を辿り、縞に区切られた窓の外へ視線を移す。
いつかオレは、裁かれるのだろうか?
神に? 世間に?
いや。
オレを裁くのは、彼だ。
彼だけがオレに、幸福と生命と、記憶と、総てを与えてくれる。
……でも、オレは。
彼を、愛していたのだろうか?
〈終〉
時系列主観めちゃくちゃ。
現パロ。
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形が見て取れる内は、何度も焼き直した。
動作を重ねるごと、感情の波は意識の沖へと遠ざかった。
まるで静謐な儀式へ没入するように。
俺は予め拾っておいた石を奴にひとつ手渡し、足に重たくまとわりつく砂を感じながら、燃やし尽くされなかった残骸に近付く。
手に持った石で砕くと、のろのろと奴もそれに倣った。
今日も空はよく晴れている。
遠くに行き交い群れる海鳥の声と、砂浜に低く満ちる潮騒。
奴はいつまでも名残惜しそうに、波打ち際を走っては水飛沫をあげた。
煤にまみれた残骸を、細かく砕いて撒いた海を。
「おい、もう行くぞ」
例え俺達を待つものが何であろうと、俺は奴を連れて帰る決心をした。
少しずつ、奴は色々なことを思い出してゆくだろう。
奴は振り返ると、ゆっくりこちらへ向かって歩きだした。
その面は凪いでいて、屈託のない笑みさえ浮かべている。
そんな顔を見ていると、いつか本当に、穏やかな日々を送れる時が来るだろうとさえ思い描く。
たとえ、それが……如何に遠い日のことであろうとも。
時系列主観めちゃくちゃ。
現パロ。
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無防備にさらされた彼の首に両手を重ね、ゆっくりとその手に体を傾けた。
彼の顔が一瞬、苦しそうに歪んで、反射的にオレの手首を掴んだ。
それでも、一度苦しげに息を吐き出した彼は、掴んだ手首にそれ以上力を込めず。しかし、その手を離すこともしなかった。
オレの手から、力が抜けていった。
張り詰めたように伸ばした肘が緩み、支柱を失った肩が下がり、見下ろしていた彼の顔が近くなる。
彼はうっすら開けた目でオレを見据え、何度か音にならない空気を漏らしてから、ようやくかすれた一声を発した。
「…………イ……」
鼓膜がその音を捉えた途端、オレは触れてはいけないものに触れたように手を離した。
視界が霞んで、彼が咳き込んでいるのも、弱い光と共に差し込む微かな潮騒も、明るくなりかけた部屋の中、一切が溶けて混ざり合った。
オレは額を抱えながら、彼の発した言葉を反芻した。何度も、何度も。
「オレの、名前……」
彼の声で、初めて聞いたようなその言葉に、衝撃が奔った。
記憶の底の泥が掻き回される。
いつだって彼は、オレを現実に引き戻す手段を知っている。
「どうして、そんなこと言うの……今更……」
オレのせいで、何もかもが壊れた。
オレの勝手な感情で、総てを壊した。
壊そうとした。今だって。
許される筈のない行為を犯した。
逃れようとして彼に引き戻されるたびに、疲れすら感じていた。
引き戻そうとする彼の労力は、敢えて考えもせずに。
それなのに、彼は、オレのことを、決して見離そうとしなかった。
今際の、際になってまで。
彼は何を思いながら、オレに抱かれていたんだろう。
眼窩から生温い水がとめどなく溢れた。止まらなかった。
呼吸を整えた彼が、うつむいて嗚咽するオレに顔を寄せ、前髪をかきあげるように額に触れてきた。
涙で滲む視界の中で見える赤眼は形がぼやけ、それでもこちらを真直ぐに見据えていると感じた。
「もう、帰るぞ」
深い、声が落ちた。
彼の瞳の中に、確かに存在するオレの像が見えた。
「帰るんだ」
総てが壊れた今も、彼の中にまだ、オレが生きているのなら。
総てを捨てない彼が、まだそこにいるのなら……。
時系列主観めちゃくちゃ。
現パロ。
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海鳥の声で目が覚めると、夜明けがすぐそこまで迫っていた。
ピアノの椅子に座ったまま眠ってしまったせいか、体がこわばっている。
しばらくぎこちない運動を繰り返しながら、軋む体を立ち上げた。
床に臥している彼の傍まで音を殺して歩み寄り、腰を下ろす。
オレはそのまま彼を見ていた。
まだ薄暗い部屋の中で、彼の浅黒い肌が僅かな光を反射していた。
床に投げ出された手首に触れようと手を伸ばし、思い止まり、引っ込める。
今までオレを取り巻いていたもの総てと、隔たる環境の中。
彼だけが、これが連続した現実であると知らしめる存在だった。
夢路に逃れ彷徨っても、いつも寸前の処で伸びてくる、その頑強な手に捕らえられ、オレは現実に引き上げられる。
そんな彼も、今は夢寐に沈んでいる。
穏やかな吐息の下、彼はどんな夢を見ているのだろうか。
何かが、オレを動かそうとしていた。
彼を構成する器官や、心持ち少し痩せた様に見える首。
オレは、もう一度だけ……。
時系列主観めちゃくちゃ。
現パロ。
‐‐‐‐‐‐‐‐
「ピアノ、弾いてもいい?」
奴は、俺の目を視線で掬い上げるように尋ねた。
「……ああ」
俺は、射すくめられたようにそこから動けなかった。
奴の冷たい指が、俺の手に重なっていたからとか。
随分長い間、こんな真正面に奴と見合うことがなかったからとか。
そんな理由ではなく。
ただ俺は、その体勢から動くことができなかった。
下から覗き込むように、顔を寄せられる。
何度目かの呼吸の後、口が触れて、一瞬心臓が跳ねる。
他人の粘膜と接するのが久しぶりすぎて、そこから進むことに戸惑いを感じた。
妙に張り詰めた空気とは対照的に、奴はとても穏やかに見えた。
「ピアノ、弾くんじゃなかったのか」
解放された口で、それだけを言う。
「ピアノは逃げない」
「……俺だって逃げねえよ、」
今更、と続けようとした言葉は、再び遮られる。
鳥の声と波の音に包まれたまま、固まって動かない俺は、奴の体温に絡め取られた。
薄闇の中に浮かんで見える白い皮膚は、どこか乾いていた。
現パロ。
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朝になると、冷たい空気に目が覚めるようになった。
まだ光が夜の気配を押し退けきらない早朝。
日当たりのいい縁側は、ようやく昇ってきた太陽にうっすらと照らされ、暖かな色を帯びていた。
俺は崖に面した勝手口に積んだ灯油を、砂浜へ運んだ。
次いで、ロープで頑丈に縛られた布の固まりを。
それは、奴が視界の内に入れるのを避けながらも、その存在を消し去ることを今の今まで許さなかったものだ。
灰色の砂の上で、炎は様々な証であるものを燃やし尽くそうとしている。
海風が匂いを薄めてくれることに、俺は安堵していた。
背後から近づく気配に気付きながらも振り向かずにいると、左肩から腕にかけ、ひとの重みと体温が伝わった。
淡い色彩の髪が、視界の端で揺れる。
僅かに首を動かしその表情を窺うと、長い睫毛に陰る碧眼は、揺らめく炎と煙に縫い止められたように動かない。
潮騒と海鳥の声と火の爆ぜる音だけが、ひんやりとした大気に満ちる。
目の前の炎が消えるまで、俺達は無言で肩を寄せ合い、その光景を眺めていた。