【鳥の騎士と赤い夢】
壁際の窓辺に寄り添う二人。
賑やかな大人達の群れから距離を置いた、静かな窓辺だった。夜の庭に、明るい室内の光が黒い窓枠と二つの影を落としていた。
小さな弟の傍らに立ち守るように肩に手を置いた着物姿の14歳の少女は、姉というより幼いながら母のようでもあった。
弟の少年も紋付きの袴姿で、彼がその日の主役だった。
その日は少年の七歳の誕生日。
私は、その少年の父親が誕生日に贈った誕生日プレゼントだった。
息子の誕生日にオレンジやブルーのリボンを付けた子犬を送る。箱の蓋を可愛い鼻面で押し上げて、待ちきれない元気な子犬が飛び出してくる。小さな尻尾をぶんぶんと、千切れ飛びそうなほど振りながら、小さな主の顔をバースデーケーキの生クリームみたいに舐めまくる……アメリカかイギリスのホームドラマで、いかにもありそうなプレゼントだ。
当たらずとも、遠からず。
私は子犬でもなければ、カラフルなリボンも付いていない。
眼鏡を付けた黒いスーツとネクタイ姿の180くらいの男だった。
私が子犬と同じなのは、犬のような忠誠を持って、仕えるべき立場にある事だけだった。
因みに、毛並みは黒の五分刈りだ……。
「紫島です。今日から、七郎坊ちゃまの付き人になります。」
私は少女と少年の前に、片膝を折ってかがみ、自分の名前と役目を告げた。
甲冑をつけた騎士が主に忠誠を誓うようなポーズは些かこっぱずかしいものだったが、実際はその通りでその少年こそが私の小さな主だった。
しかし、
その芝居がかった仕草自体は少年の背を抱いている少女の為のものだった。少女は私に対し警戒心をいだいた少し睨むような目を向けていた。
きっと弟以上に新しく来た従者がどのような人間なのか不安なのだろう。
今まで自分が守ってきた弟を、自分の役目をこの見知らぬ男に渡しても良いのだろうか……そんな目をしていた。
私は、そんな健気な少女を安心させる為に跪いて少女とその少年を見上げたのだ。
優しげな笑み…というものを心がけて表情を作ってみたのだがあまり自信はない。
少女は、小首を傾げる。小鳥のようだ。
と、自ら弟の背を押して私の方へ行くように少年を促した。
「七郎、今日からお前の世話はそいつがするってよ。」
それは、可憐な少女に似合わぬ大きく口角を上げた笑いだった。
少女はやっと肩の荷がおりたと、大袈裟に伸びをしてみせた。
「行けよ、七郎。そいつはお前を迎えにきたんだ」
少年は私に手を引かれ、姉から遠ざかってゆく。
何度も後ろを振り返る少年。
壁に寄りかかって腕組みをしていた少女が、面倒くさげに一度だけ手を振った。少年も少女に一度だけ手を振り返すと、今度は一度も振り向く事はしなかった。
私はこの時、少しだけ自分が誘拐犯になったような気がした。仲の良いこの姉弟を、自分が離れ離れにしているのではないだろうか。
実際は私の存在に関係なく、その姉弟は離れる運命にあった。『正当』と『それを継げなかった者』として別々の道を歩まざるおえなかった。
それは、
少年がその力と共に生まれた落ちた時から既に決まっていて、私はその運命の残酷な一場面に、立ち会っただけなのだ。
◆
どうしてこの屋敷の者は、『彼』を『男』として扱うのだろう。
『六郎様』――――屋敷に仕える者は皆、彼をそう呼んでいた。
紫島はそれが不思議だった。
『六郎』と男の名で呼ばれ、
『兄』として『弟』として『息子』として……
この屋敷の誰もが『彼』を『彼』として扱う。
彼の父は彼に『六郎』と男の名を与え、
彼の年の離れた兄達は彼を『弟』として、その名を呼び……
そして、彼のまだ幼い弟さえも『六郎兄さん』と―――――彼をそう呼ぶ。
『六郎』 『六郎兄さん』 『六郎様』……。
それが彼が生まれてきてから今までずっと呼ばれてきた彼の名だった。
呪術者の家に関わる者なら、多少なりとそういうものに詳しくなる。
術者の世界において、『名前』はまさしく呪術の一部だ。
それが『何者であるか』と定義付け、言葉に込められた意味でそれを『何であるか』を縛る『言霊』という呪術の一種なのだ。
名前に込められた言霊で、その物自体の『在り方』を定める。
彼の名前は、彼が生まれる前から決まっていた。
『男』なら『六郎』と……
『扇の本家』に生まれてくる子供に、始めから『女』の名など、用意されてはいなかった。
土地神は、その土地の地脈と交わり、その土地の自然環境に大きな力を及ぼす。そこに生きる生物の中には、当然、人間も含まれている。
扇の本家はその発祥が土地神の人柱であった事も起因して、神有地と土地神の力をもろに受ける一族であった。
扇の本家が祀る嵐座木の土地神は、気まぐれで残忍な女の土地神であった。
その激しい女性(にょしょう)は美しい男を好み、女を嫌う。
彼女が蛾の妖である事もあって、昼は魍魎桜の中で眠っている。扇の屋敷に仕える者も、女は夜になる前に全員を下がらせている。
嵐座木神社の夜間女人禁制なのは、その繭香様の気性の所為なのだ。
だから、『扇の本家に女は生まれない』のだと言う。
女を嫌う繭香様の治める本家の血、本家のこの土地に、――――女の子供は生まれない。
生まれる女は、その性を強制的に男児として変えられるか、生まれる前に死ぬのだと言う。
だから、女の名など必要なく、彼は始めから『六郎』なのだと―――。
紫島は、六郎の着物の下を見た事はない。
それでも、紫島は――――
最初に出会った頃から、今でもずっと、
『彼女』は初めて出会った頃から『少女』で、
あれから、十年の歳月が流れても―――――、
一度も変わらず紫島にとって『女』であった。
紫島はどうして『彼女』を『男』として屋敷の者が皆、そう扱うのか不思議だった。
◆
一陣の風が、庭園の草木を撫で桃色の薔薇の花びらが宙を舞う。
17歳の七郎が、紫島の前に降り立った。彼が大事そうに、その胸に抱える白い髪の人物……七郎にとって、兄にあたる最愛の人が弟の胸に抱かれて眠っている。
狩りから戻った大鷲が、自ら爪にかけたその獲物を誇らしげに巣に持ち帰る。捕らえた獲物が嬉しくて堪らない。これは自分が捕らえた獲物なのだと、周囲に見せる。
そして、見せつけた上で誰も手出しするなと、これは自分の獲物だと、その力を示している。
「ろ、六郎様…!」
意識のないぐったりとした様子に、紫島が慌てて駆け寄った。待機させていた医療班に六郎を渡そうと七郎の手から六郎の体を受け取ろうとしたのだ。
「さがれ。兄さんは俺が運ぶ。」
短い言葉が主と従者の間に、冷たく放たれた。
『これは、お前が触っていいようなものではない』
七郎の榛色の瞳が、言外にそう言っていた。弟は兄の体を他の誰にも指一本触らせなかった。
『これをついばんで良いのは、俺だけなのだ』と―――――そう言われた気がした。
紫島は見ていた。
七郎が皆の前で六郎を見せた時…。
七郎がよく見えるようにと傾けた六郎の顔が、前髪がかかったその顔が黒い線が刻まれている。薄く唇が花弁のように開くのを…。
そして、その反らせた首に、……白い肌と肉色の無数の傷、顔と同じ黒い線。
その中に、鮮やかに咲く真紅の花弁。
淡い浴衣に包まれた白い髪と白い肌……黒い線、無数の傷。
唇の濡れた赤と、首の赤……二つの花弁が、六郎の体にとまっているようだった。
その唇を…
その白い首筋を……、誰かに触れられた?
誰かが触れて、その痕を体に残した…?
誰が、こんな体の六郎を抱いたのだろう。
六郎の兄、一郎達の誰かか……、
六郎を捕らえた夜行の誰かに、六郎が命乞いの為にその身を任せたとでも言うのか…
この鮮やかな赤を、誰が、…どんな男が?
まさか、
――――七郎坊ちゃまが吸っていらしたか?
その時、
六郎の髪にもう一つの赤がとまった。優しい淡紅…
かつて六郎がこの屋敷を出る前に、紫島にだけそっと教えた薔薇の花。柔らかな桃色の花弁、中輪の八重のカップ咲き。群れるように、丸い可愛いらしい花がたわわに咲き誇り、その重い枝先が優雅なアーチを描く四季咲きの薔薇。ドイツの薔薇…。
「こいつはな、『ローブ=リッター』って言うんだ」
少女の声が耳に残る。
その花の名前は、
ドイツ語で『強盗騎士』―――――
六郎が父親の二蔵から7歳の誕生日に貰った花。六郎はその強そうな名前が気に入っていた。
ドイツ語の『ローブ』とは『強盗』『略奪』『誘拐』を意味する。
また、『ローブ=フォーゲル』と言えば『フォゲール』は『鳥』を意味し、
―――――『猛禽類』――――
と訳される美しき天空の覇者だ。
六郎の髪の上にとまる一片の花びらは、少女の髪飾りのようだ。
紫島は主を守る小さな騎士の欠片が、髪を撫でた七郎の指先に払い落とされるのをただ眺めていた。
七郎は六郎を離れの寝室に運ぶ。今夜、六郎は七郎の腕の中で眠るのだろう。紫島は何となくそう思った。
◆
こんな夢を見た。
六郎の夢だ……。
浴衣姿の六郎が、ベッドに横たわっている。仰向けの胸元から覗く鎖骨が美しく白い。
今、紫島は六郎の体を跨いで、六郎の体の上から六郎を見下ろしている。両手に込められた六郎の抵抗は、紫島の腕一本でがっちりと握って封じてしまっている。
頭上に束ねられた腕、赤い瞳、白い髪……。白い小鳥のように温かい。
確かに、これは……と紫島は笑った。
七郎が自慢げに見せびらかすだけあって、何とも美味そうな獲物だった。
「六郎様……」
「…し、紫島?」
「『六郎様』?
……いえ、貴女は『六郎お嬢様』です。可愛いひと…」
「止めろッ!!……変な冗談はよせッ、俺は―――」
「六郎お嬢様、貴女は六郎お嬢様だ。私はずっと、心の中で貴女の事をそう呼んでいた。
変な冗談は貴女に『男』をさせている、この家の方ではありませんか……こんなに可愛い貴女に…」
紫島は六郎の襟の合わせを、開いた手でゆっくりと引き開いた。薄い男のような胸だった。あの黒い線が交差して走っていた。その間から垣間見る、小さな二つの赤い乳突起。
髪と同様に色素が抜けた肌にあるそれは、乳輪も柔らかで可愛いらしいあの薔薇のような桃色をしていた。
淡く可憐で美しい。
美しい――――しかし、まだ蕾のようだ。紫島が指でそれを摘むと、ふるりとした柔らかさと湿度があった。
「ア…、やめろ紫島ッ、俺の……触るなんて、胸なんて…面白くない」
「六郎お嬢様、貴女は可愛いひとだ。少女の胸は小鳥のように柔らかに、すべすべとして滑らかなものなのですよ?」
そう…、『少女』なのだと。
それはまだあどけない少女の胸が少年のそれと変わらないのと同じ。柔らかな肉が柔らかな少女の女としてのふくらみを形成する以前の体。
「やめろッ…ン…ゥ、ヤ、やめてくれ……紫島ァ」
紫島の両手が六郎の胸の薄い肉を、寄せていた。六郎は細い指でシーツを握り締めながら、紫島の下で鳴いていた。さえずる小鳥の嘴に、男は唇をあてる。濡れた舌を甘美な音色を、私の口にも移してくれないか?
脇腹から鳩尾から、腹部から……胸の周囲の肉から、柔らかな脂肪を少しずつ寄せ集めて、手のひらに包んだ。
すっぽりと手の中に収まってしまうほど、僅かな小さなふくらみだった。それでも、淡い桃色を取り巻く柔らかな脂肪質は小さいながらも、乳房と言える形と弾力をしていた。
あまりのショックに茫然自失として震えている六郎の手をとると、紫島は六郎の女の胸に六郎の手を置いた。
呪縛のように、もう一度言う。
「貴女は『六郎お嬢様』です……可愛いひと。」
自分の胸のそのふくらみに、六郎は諦めたような安堵の表情を浮かべ、不思議と微笑んだ。
夢の終わりに紫島は、六郎の白い首を愛撫した。あの赤い痕をどうしても六郎の体に自分が残したかった。紫島は忘れられない夢の名残を、少女の幻影に赤く刻み付けた。
あの鮮やかな赤を付けた男は、自分なのだと。