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1月4日(金)

【名古屋城できしめんを食べた】1/4

朝のモーニングが終わり、郵便局から本やDVDを送った後、銀行に行って、東海共同印刷さんに本の製作費を振り込み、さてどうするかと空を見上げる。
雲一つない青空だ。
歩きに行こう!

歩くとすれば、東山か? 緑地公園か?

でもなぁ、青空にはお城だよなぁ。
抹茶もあるし、きしめんもあるし…。

ということで、今日は名古屋城へ足を向けた。

城の周囲を歩き、写メを撮り、きしめんを食べた。

味というのは、薄いのが好き、濃いのが好き、鹹いのが好き、甘いのが好きなど、人によって好みは違うので、単なるオイラの好みだけど、名古屋城のきしめんは、豊川稲荷よりは上だけれど(ふつうに美味しい)、熱田神宮の宮きしめんよりは下かな?

きしめんを食べたせいで、おなかが一杯になり、抹茶は諦めました。

という訳で、太陽を一杯受け手歩くことが出来ました。

気功生活30年を振り返って…2

【気功生活30年を振り返って】?2

月刊誌「ふれあいと癒しの交響曲」は、1995年(平成7年)から2007年(平成19年)まで、毎月発行し、150号まで積み上げました。
最初はワープロで書いていましたが、いつかは忘れましたが、途中からパソコンに変わりました。
 その内容も、気功の理論や技に関しては勿論、時事評論や紀行文、エッセイ、仏教講話など様々なもので、中でも、般若心経を一節ずつ読みながら解説していった「眼からウロコの般若心経」は好評で、それだけをまとめた形でも作り、読者のみなさんにお配りさせて戴きました。
 最初の10年ほどは200人を超える生徒さんの中の100人を超える人たちが読者になって頂き、僕は、一週間ほど掛けて、B5用紙に20枚ほど記事を書き、プリントアウトし、かみさんや仲間たちと、毎月、コピー機が幾つも置いてある店でコピーをし、折、組み合わせ、ホッチキスで閉じるという作業を行なってきました。
僕の気功理論は、教室での実践もあるのですが、この「ふれあいと癒しの交響曲」を書くことで練り上げられていきました。
そして、2005年(平成17年)に、その中の大切な項目を選りすぐり、「気功の達人になろう!」という本にまとめ、生徒さんを含め、ネットや電話で申し込んでこられた全国の気功愛好者の方々にもお配りしてきました。

更に、「気功の達人になろう!」に載せきれなかった記事や、その後に書いた幾つかの記事を合わせ、「気功の基礎と理論」、「気功の技と功法」、「気功を語る」、「わたしを革命する」の四冊を同時に作りました。
 2011年(平成23年)のことでした。
その年に起きた東日本大震災の後から京都において「元気のつどい」という講習会も催し始めました。
いま僕がお伝えしている気功の理論の主たるテーマである「体性感覚の体感」という理論は、この頃からできあがってきました。
勿論、教室においては、背骨ゆらしや、体感しながらのスワイショウなど、いましている「ふぁんそんテクニック」は実践していたのですがどうすればそうなるのか、何故そうするのかと言った理論は「体性感覚」というキーワードを得たことによって飛躍的に進化したのです。
そして、2013年(平成25年)、その理論化された「ふぁんそんテクニック」に基づいた「ふぁんそん教室」を開催しだしたのです。
更に、気功そのものを深く探究すべく「気功塾・指導員養成講座」を2015年(平成27年)から開催し、そこにきておられた空手の師範の道場において、2017年(平成29年)から「四日市養生気功道場」も開かせて頂いています。
そして、その方からの提案(要望)もあり、養生気功シンプルヴァージョン、フルヴァージョンやパワーアップ気功〜パワフルダイエット〜という創作気功も出来上がっていきました。
そして、2018年(平成30年)、「気功の達人になろう」や四冊の小冊子に続く「ゆるめる・ゆるまる気功の技」という本を仲間の人たちが作って下さり(その大半は愛知県下の図書館に寄贈させて頂き)、年末ぎりぎりに、ブログに書いていた記事をまとめた「静観塾?、?」の二冊が出来上がってきました。

今の僕のブログ「アメブロ」のタイトルも「ふれあいと癒しの交響曲」にしているのですが、教室のみなさんとの実践とそこでの気づき、そして、その気づきに基づいた工夫と体感、そしてそれらを文字とし記録していく作業によって僕の気功の理論と技は進化して来たのだと思います。

*個々の思い出、また書きますね。

気功生活30年を振り返って

【気功生活30年を振り返って】?1

  僕は1988年(昭和63年)の10月から気功の世界に脚を踏み入れました。
  中日文化センターの林茂美先生の教室に入ったのです。
 気功に接するのは生まれて初めてのことでした。
 ですから、気功とは何か、何をすることなのかといった基本的なテーマさえ頭にない状態で気功の世界に飛び込んだのです。
  翌1989年の1月7日で昭和が終わり、1月8日から平成の時代に入りました。
  僕が気功の世界に飛び込んでから三ヶ月で平静になった訳です。
  その後、1年から1年半ほどは、林茂美先生から大雁功、林厚省師から太極気功18式、郭良師から五行八合法、黄美光師から太極神功などの作品を学び、それらの動きを覚えることに必死になりました。
  そして、林茂美先生の推薦により、1990年(平成2年)の4月から名鉄カルチャースクール(旧熱田の森文化センター)で講師活動に入ったのです。
  それは、僕が気功の世界に飛び込んで1年半後のことでした。
  ですから、当時の僕は大雁功や太極気功18式など幾つかの作品は知ってはいても、「気功そのもの」については全く理解していなかったのです。
  それでも中日文化センターや名鉄カルチャースクールでの二つ目の教室など講師としての活動範囲は広がっていきました。
  そして、1992年(平成4年)の夏、僕の気功を飛躍的に変化させることになる湯偉忠(タン・イチュウ)さんと出会うことになるのです。
  彼のバネのあるやわらかくてしなやかな動きは目を見張るものがありました。
  僕も彼のように舞いたい、そういう気持ちが今の僕を作り上げてきたと言っても過言ではありません。
  湯さんを数回、名古屋に呼んで講習会を開いたり、彼の行なう気功講習会に参加したりなどを通して彼の伝える仏門気功を学びました。
  具体的には、鳥形八式、金剛八式、結手印、羅漢拳などですが、実際は、大雁功と同じく、作品の動きを覚えることに必死で、僕がする動きはとても「気功」と呼べるものではありませんでした。
  その後、1994年(平成6年)から、癒しの学校、気功塾、癒しの場を訪ねる緑の風にゆられて、樹林気功のナチュラリー、大雁功を学ぶウイングなどの自主的な同好会を次々と立ち上げていきました。
  当時は他に、千音寺気功の会、亀島気功同好会、千成気功同好会、熱田新婦人気功小組など幾つかの地域の同好会も開催されていて、僕は気功漬けの毎日になっていたのです。
  そして、気功の仲間の機関誌として「ふれあいと癒しの交響曲」という月刊誌(B5版20頁程度)を発行することになるのです。

1月4日(金)

1月4日(金)です。

みなさん、おはようございます!

名古屋の正月三が日は好転に恵まれ、オイラ、初日の出を拝みに行ったり、一時間ほど歩いて初詣(初祈祷)に出掛けたり、地元の豊国神社や喫茶ミヤさんに遊びに行ったりと、「でべそ」のオイラには嬉しい三が日でした。

さて、今日から世の中はお仕事が始まり、郵便局も銀行も開くので、熊本の友人に本を送ったり、「静観塾?、?」の本代(印刷、製本など)の支払いに行ったりした後、名古屋城に足を延ばそうかと考えていますが、その時にならないと…(何しろ気分屋だから)。

ということで、みなさん、今日の一日、充実した1日をお過ごし下さいませ。
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