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終わりの準備はきっと始まり

26歳になりたくない。そう友人に言われたとき、なりたくないよねとなにも考えないで答えたことがある。


いまではきちんと考えたうえで言える。ぼくも26歳になりたくない。


そう考えると、急に色んなことがどうでもよくなり、どうでもよくないこともはっきりとみえてきた。


何回か書いてきたが、僕は19のときに友人を事故で亡くしている。その友人が僕に残してくれた考え方は、「いつ死ぬかわからない」という圧倒的なリアリティだ。これはもう近年ではたくさんの例があるよね。震災や天災、そして色々な無差別の殺人事件。皆が、抱えている想いには隔たりがあるけれど、いつ死ぬかわからないということを肌で感じてしまった。

いつ死ぬかわからないので、日々なにか残したい気持ちが、僕に詩を書かせている。でも、それだけではもう足りない。仕事や友人関係など、それら全てでなにかを残したいと思っている。

それが、どうでもよくないこと。

例えば川に飛び込むこと。飛び込むことで被るダメージに関してはどうでもよい。飛び込み、川を感じ、五感にエネルギーを送ることはどうでもよくない、大切なこと。そういった行動原理で動いている。


タイミングが良いのか悪いのかわからないけれど、9月と10月はほとんど予定が埋まった。11月5日の誕生日まであと3ヶ月もない。できることを、自分のなかでやれるだけやりたい。


灰になるまえに嵐を啄む海獣でありたい。

落とし物はどちらの海岸に?

刺される前にあの赤信号をどうにかして。

ねえ、その影は本当に必要かな。眩しすぎるの。

この世界の果てに行き着いたとき

ペンギンハイウェイで、世界の果ては内側にあるかもしれないと言っていた。折り畳まれた世界の内側に、果てはあると。なるほどと思ったりした。


だけど、世界の果ては内側というよりは内面にある気がする。気がするというよりも、むしろ確信に近い。どこまででも、たとえ冥王星や宇宙のずっと奥にいったとしても、最後は自分の内面に道は帰ってくるんだと思う。ははあ、終わりは始まりであるということは、まさにそういうことなんだろうか。

世界へ。


ねえ、世界は。せかいと口にだすだけで、一瞬目の前の水平線が永遠になる。
からだの隅々の熱を絞り出して、腕がゆっくりと果てまでのびていく。
その泳ぎ方を覚えていくことが、大人になるということだと老人は言った。
今日も見えない。明日も見えない。
気がついたときにはもう岸は見えなくて、頭の重さに委ねて海の底へと沈んでいった。
鰯の向こう側に小惑星が煌めき、這う蟹や読み聞かせをする貝たちの声が子守唄になって、まどろみ、灰へと一直線。

きっと、プランクトンは世界の果てを知っていて、笑いながらぼくたちを見ている。

終わりの方角から忍び寄る足音

辻斬りのような絶望。

日本に帰ってきてから本格的に食物を食べられていない。食べようとすらしていないことに、驚いていないこの状況はなんなんだろう。



ニューヨークで僕はただひたすら羨ましいと思って歩いていた。街の匂い、人の温度、地面からの跳ね返り、目に入るネオンたちの色、時折聴こえる音楽。全てが羨ましく、日本で僕が感じることのできないものが詰まっていた。



帰りたくなかったのに帰ってきてしまった。また地獄が口を開けて待っているというのに。



空を見ることを忘れないように。コーラにライムをさすことを忘れないように。




生きることを忘れないように。

星空の空洞

冷え込む。

星空は筒の先に近い存在。自分と星空の間にはとてつもない距離があるのに、まるで隣合わせみたいだ。きっと空洞になっていて、邪魔者はみんな蚊帳の外。寒いだろうに。ロマンチックはときに冷酷。

されど、空洞はわたし。

悲しくなると、お腹が空かなくなる。それもまた悲しい。

『生きているだけで、愛』を再読した。四年ぶりくらいかな。きっと当時より、ただただ痛々しく思えた。

痛みを知ったんだろう。

もう、失うために使う材料は自分のなかにないのに。

その秋は、水平線

京都音博に行った。

フェスが好きな理由は、大音量を身体中に浴びせられるから。ばかでかい風呂に入りながら、温かい栄養がからだに溶け込むような感覚。ビートに体を右へ左へと揺らしながら、毒素を抜いていく。くるりの温水は本当に染みた。沁みた。BABY。


再検査だってさ。肝臓の数値がことごとく悪いらしい。だんだん、中島らもになっていくのね。あなたがたどり着いた、目の前の人と同じ時間を体験するためには、抱き締めるしかないという表現。なかなかわからないので、まだ倒れるわけにはいかないんだけどさ。

足首痛いなあ折れてないかなあと病院に行ったら、全治3週間の捻挫。左足が青々としていて、見るたびに他人事のように見てしまった。足との関係はよくないみたい。左足を温める処置をしてもらった10分間、担当のおばちゃんが婦人雑誌を読んでいて、永遠を感じた。

「働いたぶんだけ陽の光浴びればいい。脳ミソは関係ない。当たり前の愛を貫けよ。」

こういう歌詞に僕は救われる。

そう、音楽は魔法ではない。

実体を持った愛になりうる。

どうでもいいよこれ以上苦しめないで。当たり前の愛を、せめて。