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ウィーンの空の下A





 月森がお茶を出し、二人でまったりと時間を楽しもうとしていたその時。
あのね、と香穂子が切り出した。

「ね、月森くん。ご飯まだだったり…する?」
「…ああ。まだだが…?」

生憎今日は忙しく、月森は夕飯を食べていなかった、いや、食べるつもりもなかった。
そういえば、前日の疲労もあって、今日一日まともに何も食べていないような気がする。

ソファーに座ったまま、どこか上目遣いで尋ねる香穂子に内心どきりとしつつも、正直に食べていないことを告げれば。
「じゃあ私が今から作るね!」と、瞳を輝かせた香穂子がソファーから勢いよく立ち上がった。
その手には、先程も見たスーパーの袋が握られている。


「…買い物を済ませてきたのか?」
「あ、うん。…一応ね。月森くんって、忙しい時はご飯食べなかったりするじゃない?」
「……そう、かもな」

少し考えて、納得した月森に、香穂子は苦笑する。

月森はそれほど食に執着はない。
健康管理するうえで最低限の食事は心がけているものの、疲労に負けて今日のように何も食べない日も度々あった。

「私、月森くんのために何かしてあげたいと思って。考えたら……やっぱり料理かなぁーと…」

―そう思ったんだけど……安易かな?と、心配そうに月森を伺う香穂子に、 そんなことはないと笑って。

「そっか。良かった!」

両手を合わせ無邪気に喜ぶ香穂子がいるだけで、いつも住んでいるこの場所が全く違った色を見せる。
そのことに感慨を覚え黙り込んだ月森を横目に、いつの間にか(日本から持参したのか)エプロンを着用した香穂子が世話しなく台所で作業を開始する。

「…月森くん。見事に冷蔵庫空っぽだね」
「まあ…基本的に外食だからな」
「……らしいといえば、らしいけど…」

いっぱい買ってきて良かった、と笑いながらキッチンに立つ香穂子を、後ろからぼーっと眺める。
自然と月森の表情が緩んだ。

(…ああ。こういうことを幸せというのかもしれない)
そんなことを考えながら、温かな時間に酔いしれる。

―食事のお礼に後から香穂子に一曲奏でようか?
そうなれば、何を弾けば香穂子は喜んでくれるだろう?

幸せな悩みに頭を悩ませる月森に、台所から声がかかる。

「月森くーん、お風呂まだだよね?だったら、ご飯の前に入って?」

作るのにまだ時間かかるから、と香穂子が言うが、流石に月森も「それは…」と言葉を濁した。
まだウィーンに着いたばかりの香穂子に食事を作らせ、この期に及んで暢気にお風呂に入っていていいものなのか。


香穂子に申し訳なく、丁重に断ろうとした月森だったけれど。
「だったらお礼に明日、観光案内…というのは口実で。…良かったら私とデートしてほしいな?」とにんまり誘われて。
 そんなこと月森にとって願ったり叶ったりで、お礼になどならないと思ったのだが、結局は香穂子に押しきられ大人しくシャワールームに納まった。


一日の疲れを洗い流すように、さっと熱めのシャワーを浴びる。
耳をすませば、香穂子の鼻歌と共に軽快に響くまな板と包丁のリズムが何とも言い難く。
これまでこちらに来てから、久しく聞いていなかった生活感溢れる音が、月森の胸に懐かしさを運んで来る。

香穂子にいつまでこちらにいるか聞き損なったけれど、この調子では彼女が日本に帰った日にはホームシックにかかりそうだ、とらしくもない思考に淡く笑みが漏れた。


◇◇◇◇


「月森くん。ご飯出来たよ〜!」

コンコンと外側からノックされ、ああわかった と返せばそのまま足音は遠ざかった。
多分リビングに戻ったのだろう。

(―何だか、妙な気分だな。…まるで同棲…)

と そこまで考えて、月森は真っ赤に染まった頭を振った。

―駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だっ!
これから食事だというのに何を不埒なことを考えている?

しかし一度頭を支配した感情はどうにも抑えることは出来ず。
タオルで、わしわしと頭を拭いてみるけれど効果などない。

「…月森くーん、どうかしたの?」

慌てている月森の気配が伝わってしまったのか、香穂子がリビングから声をかける。

「い、いや。何でもない」

上擦ってしまいそうな声を努めて冷静であるように振る舞えば、「…そう?」とあっさり引き下がる香穂子に安堵する。
けれど、服を着る途中、ちらり見てしまった玄関に並べられた二人分の靴が、何だかもうたまらなくて。
まだ遠い話だけれど、結婚してしまえばこんな光景も普通になるんだろうな、などと考えている自分がいる。
そしてまた、それに気づくと真っ赤になって………その繰り返し。


気分を変えようと窓の外を伺えば、もう外は夜の帳に包まれている。
 夜、異国の地に、恋人と二人きり。
それが何を意味するのか、月森でもそのくらいはわかる。
体に溜まる熱を吐き出すかのように、月森は溜め息溢した。

 夜は、まだまだ長い。
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