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芽生え始めたもの

*斎千←沖



 ──…もう!やめてください!!──…んー、どうしようかな〜?


 いつものように、軋む床張りの廊下をまっすぐに歩いていた斎藤は、遠くから聞こえるその声に僅かに眉を顰めた。
 戸惑いを含んだ頼りない声に続いて聞こえる、からかう調子を隠そうともしない低い声。
 前者は最近新選組で預かっている雪村千鶴という子供で、後者は隊内でも恐れられる冷酷な一番隊組長、沖田総司に間違いないだろう。
 これは幹部しか知らない秘密であるが、実は雪村千鶴はれっきとした女である。
 屯所では風紀の乱れを危惧し彼女に男装を強いているけれど、年頃の娘がこのような場所に居ること自体が可笑しなことであり、偶然あのような場所に居合わせた彼女のことを不憫に思わないこともない。

 普段の斎藤ならば情など移すことなどありえないのだけれど、彼女はあまりに素直で、また普通過ぎて時々どう接すれば良いかわからなくなる。
 自分は副長に彼女の世話を頼まれたから気にかけているだけなのだけれど、雪村はそのせいか他の隊士達の中でも特に斎藤に懐いているようで、無邪気に与えられるお礼であったり微笑みに心が落ち着かないのも確かだ。

 さて、この状況をどうしたものかと一瞬考えて、けれど今にも泣いてしまいそうなその声を無視することも出来ず。
 斎藤は一つ息を吐くと、声のする場所──千鶴の部屋へと足を向けた。
 段々と近づく度に大きくなる声は、やはり雪村と総司のものだ。


 ──…もうっ!沖田さんっ!──…あははは、やっぱり千鶴ちゃんは面白いね。

 またいつもの如く、総司が雪村をからかい遊んでいるらしい。
 殺しの時はそれこそ容赦なく刀を振るう総司だけれど、その実、普段は飄々とした態度で掴み所の無い男だ。
 そして困ったことに、気に入った物をとことん苛めて遊ぶというあまりよろしくない嗜好を持つ人物でもある。
 つまり子供なのだ、総司は。


「……いい加減にしろ、総司」

 パンと障子を開け放つと同時に告げれば、総司の腕の中で拘束されていた雪村が、縋るような瞳で此方を見る。

「さ、斎藤さんっ!」

 普段の癖のようなものか、なるべく足音を立てないようにはしていたのだけれど、気配で気づいていたのだろう総司は悪びれることなく笑っている。

「邪魔しないでよ、一くん」

 あくまでも顔には微笑みを張り付けているが、その瞳には冷たく暗い色が滲んでいる。

「………雪村が嫌がっているだろう」

 嘆息しそう言えば、雪村が総司の腕の中から自力で這い出し。
 そのまま斎藤に駆け寄ると、ぴたりと背に隠れてしまった。


「どうして逃げるのかな千鶴ちゃん?」
「沖田さんが意地悪をするからですっ!」
「……僕、そんなことしたっけ?」
「今の今までしてたじゃないですかっ!!」


 いけしゃあしゃあと宣う総司に、千鶴も負けじと言い返す。
 斎藤が現れたことで、千鶴の中に総司と言い合う精神的な余裕が生まれたらしい────決して斎藤の背から離れようとはしなかったが。


 それを見咎めた総司は、まるで玩具を取られた子供のような瞳で斎藤を睨み付ける。
 とんだとばっちりだ、と心の中で呟きながら斎藤は総司に伝言を伝えた。


「……局長が、先程総司を探していた」
「…近藤さんが?」

「ああ」

 そう、ただ単に斎藤は何の思惑もなく口を挟んだ訳ではない。
 実際、廊下を歩いていたのも総司を探していたためであったりする。


「…そっか、近藤さんが呼んでるならしょうがないね」

 先程までの不穏な空気はどこに消えたのか、総司はいつもの胡散臭い笑顔を浮かべると、斎藤の横をすり抜け部屋の外へ出ていく。

「ばいばい、千鶴ちゃん。また遊ぼうね!」
「…きゃあっ!」

 勿論、斎藤の後ろに隠れる雪村をからかうのも忘れない。
 去り際に雪村の旋毛に口づけを落とし、真っ赤に頬を染める彼女を満足げに一瞥した後、総司は去って行った。



 嵐が去りしんと静まり返る室内で、最初に口を開いたのは千鶴であった。

「あ、あの……ありがとうございます、斎藤さん」

 そう言って、律儀にペコリと頭を下げる。

「……気にするな、俺も総司に用があっただけだ」
「用……伝言のことですか?」
「ああ」

 だから別にお前を助けた訳ではないのだと告げる斎藤に、それでも雪村はにこりと微笑む。

「それでも……私、嬉しかったですから」

 その瞳に嘘はない。まぎれもなく彼女の本心なのだろう。
 こんな風に柔らかい笑顔を浮かべた彼女は、男装をしているにも関わらずやはり普通の少女にしか見えない。
 だからなのか───調子が狂う。


 斎藤の後をひょこひょこついてきて嬉しそうに笑うその様は、さながら親の後をついて回るひよこか、子犬のようで。
 人斬り集団に身を置く者として決して得られぬであろう普通の日常を、少女と過ごすことでその欠片だけでも感じられている。
 きっと、隊士たち皆が雪村を邪険に扱わないのもそれが要因なのだろう。

「…どうかしたんですか、斎藤さん?」

押し黙る斎藤を気遣ってか、雪村が不安そうに顔を覗き込む。

「いや、何でもない」

 そう告げながら、自分でも知らず内に雪村の頭に手を置いていた。
 ぽんぽんと軽く叩けば、雪村は──照れているのか戸惑っているのか──頬をほんのりと染め、それでもふわりと笑っている。

 少しでも力を入れてしまえば、すぐに壊れてしまいそうな目の前の小さな頭。
 だから、そっと。どこまでも優しく、斎藤はその頭に触れる。
 大勢の血にまみれた無骨な自分の手が、今はとても綺麗なものに見えるから不思議だ。


「総司には、また後から俺が言っておく」
「あ、はい…」

 ───…まあ、言ったところでアイツが聞くとは思えんが………とぽつり溢せば、雪村が力無く笑う。
 彼女も総司の性格を段々と理解してきたらしい。


「……大丈夫だ、あんたは俺が守る」

 きょとんと驚いたような雪村の瞳。けれど、すぐに嬉しそうに笑って「ありがとうございます」と頭を下げた。
 副長の命令もあるけれど、それとは別の感情が斎藤の中に芽生え始めたことにまだ本人は気づいていない。
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仮初めの平和




 こんな風に、彼女に心を許すようになったのはいつからだろうか。
 零は一人、退屈な授業の合間に考える。

 零が理事長の家に世話になることになりもう暫く経つけれど、今では本当の家族のようにあの家に馴染んでしまっている自分がいることは自覚している。
 それ自体良いことなのか悪いことなのか、零にはまだ分からないし、分かるときが来るとしてもそれはまだまだ遥か先のことのように思う。


───黒主優姫。
 理事長の養女であり、零と共に暮らすその少女はいささか変わっている。
 いや、とんでもなくお人好しというべきなのだろうか。
 零がどれほど蔑ろに扱おうとも、へこたれることなく何度も何度も声を掛けてくる。
 始めのうちこそ頑なに優姫と関わろうとはしなかったのだけれど  それでも優しく吹き抜ける春風のように、冬の柔らかな木漏れ日のようにじわり染み込む暖かさが心地好く、いつの間にか側にいることが当たり前となっていた。

 きっと優姫は全く意識していないのだろうけれど、その些細な行動や気遣いが、渇いた大地を潤すように少しずつ零のささくれだった心を癒していく。
 こんな風に今、零が学校に通っているのだって優姫の影響が大きい。


 ───別に優姫は、特段特出した何かを持ち合わせているわけではない。

 それどころか、

 泣き虫で、意地っ張りで、チビで。
 おまけに頭は悪く物覚えも悪い。

 けれど。
 それでも確かに、優姫は零にとっての"救い"だった。
 暗闇にいた自分を無理矢理引っ張りあげ、暖かな場所も確かに存在するのだと教えてくれた。


───いつから優姫にこんなにも惹かれていたのか。
 それはきっと、出会ったあの日からだと今なら素直に思う。
 もしかしたら理事長はこうなることをとっくの昔からわかっていたのかもしれない。
 だからこそ、当時些か荒れ狂っていた零を預かり、優姫と引き合わせたのではなかろうか。
 零が──少なくとも"明日を生きて行こう"と思えるくらいには──前向きになることを見通して。


 それが確かなら零としては、まんまと理事長の掌の上で転がされていたようで面白くはないけれど、生憎ムキになるほどのことでもない。

 まあ、あの人はあの人で食えない所が多大にある人だからな、と一人ごちて零はその端正な顔にくすりと淡い微笑を浮かべた。



 ふと時計を見遣れば、あと数分でこの退屈な授業も終わろうとしている。
 いつもならば机に突っ伏し隠れることなく寝ているところだろうが、今日は思いの外、思案に夢中になっていたらしい。
 それほど自分は優姫を気にかけているのだ、という事実はあえて頭から除外する。


 ──…あと、どれくらいの時間が自分には残っているのだろう。
 人間として、血に飢えることなく生きていける時間は刻々と失われているのは、誰よりも零自身が自覚していることだ。
 自分が誰よりも憎む存在に、あと僅かな時間で、自分も加わることになる屈辱。

 けれど、それよりも気がかりなのは─────。



「…では、これで授業を終わる」

 授業終了のチャイムと共に教師が教卓に散らばった教科書を片付け始める。
 待ってましたとばかりに立ち上がり、思い思いの場所に移動し始める生徒達の中で、零の席に向かってくる一人の少女。

 零を日常へと繋ぎ止める、唯一の存在。
 そんな彼女を、いつか自分は穢らわしい欲望のままに襲ってしまうかもしれない。
 それが恐ろしくてたまらない。


「どうしたの?零、顔色悪いよ」

「………別に、」


 きょとんと見上げる無垢な瞳から、零は気まずげに瞳を逸らした。
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永遠の泡沫

*土千ED後
ネタバレありますのでご注意ください。




 ──はらり、はらりと。
 庭先に堂々と咲き誇る桜が、未だ冷たさを孕む風に吹かれその花弁を舞い踊らせる。
 ふわりと髪が煽られる度、香る花香と雪の如く舞い散るそれは酷く情緒的で美しく。
 一人縁側に座り惚けたようにその様を眺めていた自分に気づくと、千鶴はふっと唇を緩めた。


 蝦夷に到来した少しばかり遅い春。
 まだまだ暖かいとはいえないけれど、それでも突き刺すような冷気は身を潜め、こうして縁側にのんびりと佇めるまで和らいだ。
 ──…この地の冬は、とても厳しい。
 江戸から京へ移り、その底冷えする冷たさにとても驚いたけれど、蝦夷はそれとは比べられぬほど寒い。
 身を切るような寒さというのは正しくこの事か、と無理矢理に納得させられる毎日の生活は、"鬼"である千鶴にとっても決して楽なものではなかったけれど。
 それでも何とか、新たな季節をこの目に焼き付けることが出来た。


 ふわり、花香が千鶴の鼻腔を擽る。
 まるで全ての命が、今生まれ、育ち始めたのかと錯覚してしまいそうな程、一面に広がる桜色の景色は希望に溢れているように見える。
 いや、実際そうなのだろう。
 春は恵みの季節だ。冬眠していた動物達も目を覚まし動き出すように、村にも人が戻りもう少し賑やかになるだろう。
 そうしたらまた、すぐに訪れる次の長い冬を乗り越える為の食糧や衣服を、どうにか工面しなければならない。

 そう、何もかも上手くいっている訳ではない。
 けれど千鶴は幸せだった。
 どうしようもなく、こんな些細な日常の一部でさえも、いとおしくてたまらないのだ。


 案外、自分も現金なものだと千鶴は笑う。
 半生を振り替えれば、それこそ自分は壮絶な人生を歩んでいた。
 蘭方医の父を探し京に出れば、恐ろしい者たちに殺されかけて。
 新選組に助けられたものの、そこでもまた殺されかけて。
 新選組の仲間になった矢先、実は自分が"鬼"であることを知って。


 ひとり、ひとりと戦で仲間が減っていく中でそれでも託された夢や願いを背負い戦い続ける彼を支えたいと思った。
 鬼と恐れられ、自分にも他人にも容赦なく厳しい人だったけれど、彼が誰よりも近藤さんを──"新選組"を大切に思っていたことを千鶴は知っている。
 そして、あれからもう一年。
 彼が千鶴を受け入れてくれてからは、貧しいながらも慎ましく二人、穏やかに緩やかにこの場所で暮らした。
 何もかもが終わり、そして始まったこの場所で。


 時の流れは恐ろしく、時代は目まぐるしく移り変わっているけれど、この一面に咲き誇る桜は相変わらず美しい。
『薄桜鬼』と名を与えられた彼の如く、儚く、美しく、誇り高く純粋で、そして誰しもを魅了する花。
 ひらひらと舞い散る花弁が淡い寂寥を胸に運んで、千鶴はポロリと涙を溢した。
 ああ、また怒られてしまうと涙を拭おうとした時、ざあと一抹の風が千鶴の前を吹き抜ける。
まるで「泣かないで」と言っているようで、その優しさが胸に迫った。





「おい、」

 と。
 後方から苦笑したような声が降ってくると共に、ふわりと優しく抱き締められる。
 千鶴からその顔は見えないけれど、きっと、どこか困ったような、そんなとても優しい顔をしているのだと思う。


「何泣いてんだよ、お前は」
「……泣いてません」

 何となく認めたくなくてそう言うと、「…ふーん」と意地悪な笑みを浮かべた土方が、未だ微かに涙の残る千鶴の瞳を己の着物の裾で拭う。
 一見、乱暴に見えたその仕草も絶妙な力加減が加えられており、その証拠に、ごしごしと擦られたにも関わらず千鶴は全く痛みを感じない。

 彼のこんなところが素敵だな、と千鶴は思う。


「ったく、俺の仕事を増やすなよ」

 おどけたようにそう言って、土方は穏やかに笑った。
 会ったばかりの頃の彼からは想像できない優しい笑みに──もう何度も見ているはずなのに──千鶴は未だに慣れることが出来ず胸をときめかせる。
 元より顔が良いぶん、その笑顔ときたら凄まじいものがあることを本人は解っているのだろうか。


「しかし、お前いつから此処にいやがる?」

 頬を染めている千鶴に気づいているのかいないのか、土方は柔らかな体をしっかりと抱き締めたまま千鶴に問いかける。

「いつから…と言いますと?」
「………体が大分冷えちまってるじゃねぇか。風邪ひいたらどうするんだよ」

「桜が、あまりに綺麗だったので、つい…」

 ごめんなさい、と素直に謝る千鶴に「仕方ねぇやつだな、お前は」と土方が呆れたように言う。
 その声音が幾分か柔らかな物だったので千鶴はほっと胸を撫で下ろした。



 ざあ、と風が通り抜けては二人の髪を揺らし、桜の花弁を舞い上がらせる。
 千鶴は一言も言葉を発さずにその光景を見ていた。
 土方もまた何も言わずこの景色に魅入っていたようだったけれど、ややあって消え入りそうな声で「…綺麗だな」と呟いた。
 何故だか千鶴には、その声がまるで泣いているように聞こえて、くるりと顔だけ後方を振り返る。
 今にもくっつきそうなほど近くにあったその顔は、当たり前だけど泣いてなんかいなくて。

 突然振り返った千鶴に驚いたのか、一瞬見開かれた土方の瞳が次の瞬間、柔らかく細められる。
 あ、と思った瞬間、千鶴の唇は土方に奪われていた。
 瞳を閉じれば、さわさわと揺れる木々の音しか聞こえない。
 縋り付くように土方の胸に体を寄せれば、力強く抱き締めるその腕が、確かに彼は此処に居るのだと千鶴に教えてくれる。



「…土方さん」
「ん?」

 土方の腕の中、千鶴は丸まるように身を寄せる。

「私、とても幸せです。本当に、これ以上なんてないくらい……幸せ、なんです」

 それは千鶴の本心だ。
 この淡い泡沫のような安らぎの日々は、千鶴にこれ以上ないほどの幸福を与えてくれる。


「…土方さんは…、」

「………土方さんは、幸せ、ですか…?」

 だからこそ、確かめたかったのだけれど。


「馬鹿野郎、んなもん決まってんだろーが」

そう言って、土方は涙が出そうになるほど優しい顔で、声で、笑う。

「言っただろう?……お前と共に生きる、と」

「……はい」


 ──…私は、こうやって貴方の命を繋ぎ止める言葉を投げ掛けることしか出来ない。
 生きて、生きて、と縋り付くことしか出来ないけれど。
 それでも。それでも貴方が"幸せだ"と言ってくれるのなら、何度でも言おう。
 何度だって微笑もう。何度でも涙しよう。


「大好きです、土方さん」
「………んなもん、知ってるよ」



 ふわりふわりと、桜が踊る。
 いつか花が全て散ろうとも、またいつか、いつか花開くように。
 想いも、絆も何もかも、いつかの未来へと繋がっていくものだから。


 ──…明日にでも消えてしまうかもしれない貴方へ、精一杯の愛を送ります。
 だから、どうか。


 一分一秒、少しでも永く、私の側にいてください。
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もっと好きになっちゃうよ



西陽も傾き、夜の帳に包まれた町並み。
最近では当たり前になりつつある月森くんとの帰り道は、今でも少しだけ緊張してしまう。


「今日もありがとう、月森くん」
「ああ」

会ったばかりの頃だったらそっけないと思っていただろうその態度も、月森くんと関わるうちにそれが彼の普通なのだと分かった。


(それに…さりげなく歩幅合わせてくれてる、よね?)


月森くんはゆっくりと歩いてくれる。
さりげなく車道から庇ってくれるし、私が一方的に話すつまらない話だって必ず相槌を打ってくれる。


(実は優しいんだよね、月森くんって)


何だか嬉しくて、にやにやと頬が緩む。
頑張って引き締めようとするけれど、顔の筋肉はまるで自分のものではないように言うことを聞いてくれない。


「…どうかしたか?」

「あ、ううん!何でもないよ」

「……なら、いいが…」


そう言いながらも、未だ訝しげにこちらを見ている月森くん。


「……あ!月森くんお腹空いてない!?」

どうにも気まずくて視線をさ迷わせた先に、偶然、美味しそうなたい焼き屋さんを見つけて。


「たい焼き食べようよ月森くん!」

「いや、俺は…」

「いーからいーから!」


そう言って、半ば強引に月森くんの腕を引き歩き出す。

後ろから はあ、と小さなため息が聞こえて、けれど腕は振り払われない。
それがまた嬉しくて、心臓がどきんどきんと勢いよく鳴り出した。


触れ合った腕から、この鼓動が月森くんにも伝わってしまいそうでなんだか恥ずかしい。



──でも、離したくないな。



「……日野。たい焼きは逃げないから…そんなに急がなくてもいい」


いつの間にか小走りのようになっていて、呆れたような月森くんの声がかかる。

「あ、ごめんなさい」

「全く、」


浮かれていた自分が恥ずかしく、急速に頭が冷えていく。

(月森くんに迷惑かけちゃった…)


立ち止まり、腕を離して。
しゅん、と項垂れ居たたまれずに顔を俯ける。



「…日野」


──優しい声。

月森くんが然り気無く私の手を引いて歩き出す。
いつもの涼しげな顔ではなくて、少し目元を赤く染めて。
それでも指先はしっかりと繋がれている。


きっと、こんなこと苦手だろうに。



──ほら、こんなところが反則なんだ。

(……もっと好きになっちゃうよ…)

ありがとう、の気持ち



振り返れば、いつだってそこにいてくれる。
それってきっと、凄いことだと思う。


寂しいとき、辛いとき。
いつだって私の隣には零がいてくれる。

前でも、後ろでもなくて───"隣"。
これってきっと、重要なこと。
ひとりぼっちじゃないんだ、って私に教えてくれたのは零なんだから。


だから。



「ありがとね、零」
「……………………は?」

他の人が見たら凄く怖いんだろう零のこんな顔も、私にはいつものことで。
零が来たばかりの頃は不機嫌そうな顔が凄く怖かったのに、今では逆にほっとしたりしちゃうんだから不思議だ。



「これからも、一緒にいてね零」

「…………熱でもあるのか、お前」


眉を顰めた零が面白くて、クスクス笑う。
零からしたら、何の脈絡もなく突然こんなことを言い出した私は、やっぱりおかしいんだろう。


でも、どうしても今伝えたかった。

零のこと、大好きだなあって気持ちが膨らんで、言わなくちゃ破裂してしまいそうだったから。


大好きで、大好きで。
胸がぎゅーって痛くなって、体が震えてしまいそうになる。
愛しさが胸の底から込み上げる、何ともいえない優しい感覚。

こんな風になるのは零のこと考えるときだけだから。


「……………早く寝ろよ」


照れてしまったのか、零はぶっきらぼうにそう言って部屋を出ていく。

少し、残念。


「おやすみ、零」

今にも扉に遮られて見えなくなりそうな背中に、慌てて声をかける。

「…おやすみ」


驚いたことに、零は淡く微笑んでくれて。
その笑顔はすぐに扉の向こうに消えてしまったけれど、でも私の目にはしっかり焼き付けられた。


滅多に笑わない零。
だからなのか、たった一つの笑顔だけでこんなにも胸が揺さぶられる。

胸がほわほわして、全身が心臓みたいにどきどきして───幸せになる。


何だか無性に恥ずかしくなって、叫び出したい気持ちをなんとか堪えて。


「おやすみなさい、零」

誰もいない部屋の中、もう一度だけ呟いて。


このどうしようもなく愛しい気持ちが、早く零に届くといい。
ひとりぼっちじゃないよ、って零が私に教えてくれたように。


私も、零に寄り添えたらいい。
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