ふと壁にかかる時計を見やれば、もう下校時刻を5分程過ぎていて。
月森の視線の先を辿るように同じく時計に視線を移した日野が、「もうこんな時間!?」と慌てて演奏を止めヴァイオリンをケースにしまう。
そんなに慌てることはないと言おうとしたのだけれど、あまりにアワアワとした日野に目を奪われて、月森は口元だけでクスリと笑んだ。
「ごめんね月森くん、こんな時間まで付き合わせちゃって……」
「いや、気にすることはない。気づかなかった俺にも責任がある」
そう言えば、「月森くんは悪くないよ!ほんとにごめんね…」と申し訳なさそうに日野が項垂れる。
こうなってしまえば月森が何を言った所で全て自分のせいだと日野に言われてしまうことはわかっていたから、「…早く帰ろう」と月森もまとめていた荷物を持ち練習室の扉を開いた。
「誰もいないね」
「………そうだな」
12月に入り、日が落ちるのも早くなった。窓から差し込むのはもう赤い陽光ではなく、静かな月の光。
しんと静まり返った閑散とした校舎に、二人分の靴音だけが響く。
「あー、何だか緊張してきちゃったな……コンクール」
あはは、と苦笑をこぼしながら日野が呟くように言う。その表情がどこか切なくて、月森は日野に向けていた視線をふいと下にずらした。
「………君は君なりの演奏をすればいい」
我ながら陳腐な慰めだと思ったけれど、どうしてか他の言葉は出てこない。
それこそ土浦ならばもっと気の効いた言葉の一つや二つ言えるのかもしれない、と考えたところでどうにも面白くなどなくて。
何となく横目で伺えば、少し驚いたように目を見開いた後、「ありがとう」と綺麗な顔で彼女は笑った。
校舎から一歩踏み出せば、夜の冷気が容赦なく二人を襲う。吐き出す吐息は白く、それが余計にこの寒さを強調しているようだった。
「さ、さ、寒ーい!」
日野も月森も学校指定のコートを着用しているけれど、どうしたって寒いものは寒い。
女性は寒さが苦手だと聞くし、日野は足を出しているから月森よりも辛いだろう。
先程から隣でカタカタと震えている日野をよく見れば、いつも首に巻かれているマフラーが見当たらず、晒された首もとが風に吹かれて寒々しい。
「……マフラーは?」
「………………今日、寝坊しちゃって…その……忘れちゃった…」
自分のミスだという自覚はあるらしくたっぷり数秒の間を開け、厳しい月森の視線から逃げるように瞳ををうろうろとさ迷わせながら日野が話し出す。
あははは、と空笑いを繰り返す日野の前で、月森は盛大に溜め息を吐き出した。
「コンクール前に、風邪でもひいたらどうするんだ」
「あ、でも!私、結構体強いんだよ!だから大丈夫大丈夫!」
そう言ってブンブンと胸の前で手を上下させる日野に。
「──…まったく」
月森は言葉とは裏腹な優しい表情で己のマフラーを外すと、 日野の細い首に巻き付けてやる。
「つ、月森くん!ほんとに私大丈夫だからっ!」
「…………………」
始めこそ抵抗を見せたものの、反応を返さずに黙々とマフラーを巻く月森に日野も諦めたのか、段々とされるがままになっていく。
「これじゃ月森くんが風邪ひいちゃうよ……」
苦し紛れだろうか、日野の口から漏れた力ない呟きに、月森はまたゆるりと頬を緩めた。
「俺は自分の体調管理くらい出来るが?」
「……うっ!……す、すみません」
尻すぼみになる日野の声。その素直な心根がとても好ましい。
日野との会話が途切れたところで何となく夜空を見上げれば、一面に広がる星達の光が感傷の花を月森の心に開かせる。
ひっそりと、隙間に入り込むように心の底に沈む願いを浮かび上がらせる。
けれど、こんな。あまりに身勝手な願いだ。わかっている。わかっている。
──…それでも、それでも。こんな日がいつまでも続けばいいのにと思う。
叶わぬ願いだと知りながら、それでもあとほんの少し、彼女の側にいたいと願う。その指先が生み出す音楽を聞いていたいと願う。
──……けれど、期限はもう僅か。
「このマフラー、明日には絶対返すから!!」
「………ああ、明日…」
「うん、また明日ね!」
──…また明日。これほど今の自分が恋い焦がれる言葉はないだろう。
もう言えなくなるだろうその言葉を。
「また明日」
自分に言い聞かせるように、呟いてみる。
言葉はすぐに闇に溶け、吐息は白く曇って霧散した。