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家族以上恋人未満



 久し振りに嫌な夢をみた。寒くて暗い雪山で、たった一人きり。酷い吹雪が視界と聴覚を奪って、幼い少女は小さく小さく、自分を抱きしめるようにして踞る。







「零、お風呂空いたよ」
「……ん、ああ」

 まだ水分の残る髪をタオルでパタパタと拭きながら、リビングに足を踏み入れる。むわっとした夏独特の熱気を漂わせる廊下から、リビングに入った瞬間感じる涼やかなクーラーの冷気に、思わず優姫は頬を緩めた。
拭いきれずぽたりと露出した肩に落ちる滴。それがまた、お風呂上がりの火照った体に気持ちよい。

「聞いてる、零」
「…ん」

 ソファーに腰を下ろし、テレビのリモコンをカチャカチャと弄る零は明らかに生返事だ。その瞳もぼんやりと移り変わるテレビの画面に固定されている。

「そんなに気になる番組でもあるの?」
「別に」

「……ふーん」

 なんだか少し──いや、凄く面白くない。せめて此方を向いてくれればいいのに。
あんな夢を見たからか、こんな些細な出来事が優姫の心を乱してゆく。
別に零がこんな風にぼんやりとしていることは珍しいことではない。ただ単に疲れているのか、それか考え事でもあるのだろう。別に零に、優姫をないがしろにしているつもりなんてないことも理解っている。
けれども、無性に膨れ上がってしまった寂しさは行き場をなくし、気づけば優姫は零に手を伸ばしていた。後方から首に腕を回し、その首筋に額を埋める。
零の匂いがした。


「優姫…?」
「……………。」

ぴくりと零の体が動いて、けれどいつもと変わらぬ冷静な声が近くから聞こえる。
衝動から思わず手を伸ばしたけれど、「嫌な夢を見たから」などと言えば、「ガキか」と鼻で笑われるに決まっている。優姫は口を閉ざす代わりにぎゅっと、先ほどより力を込めて抱きついてみた。
零の体はクーラーの効いた部屋に長居していた為か、想像していたよりひんやりしていた。その冷たさがまた、あの夢を思い起こさせる。けれど。
ふいに伸びた零の手が、彼の首に回される優姫の腕を掴んだ。その掌はじんわりと温かく、たったそれだけで、瞬く間に優姫の中の寂しさや恐怖を消し去ってゆく。
優姫は縋るように、目の前の広い肩に頭を寄せた。


「………冷た」

 はぁ、というため息と共にぼそりと零が不機嫌そうに呟く。そういえばまだ髪を拭いている途中だった。
けれど優姫は零を拘束する腕を緩めようとはしない。それどころかくすくすと笑いながら、濡れた髪をより首筋に擦り寄せる。

零に構ってもらえるだけでこんなにも気分が上昇するなんて我ながら単純な性格だと思う。

いつもならこの辺りで怒り出す零が、されるがままになっていることに疑問を感じながらも攻撃を続けていると、突然零に頭を掴まれる形で優姫の動きは止まる。
不味い。やりすぎたかな、と恐る恐る零の顔を伺えば、笑ってもいなかったけれど怒ってもいないようで。

「ったく……」

零は呆れた瞳で優姫を見ると、優姫の肩にかけられていたタオルを奪うと、きょとんとしている優姫の手を掴みソファーに座らせる。大人しく零の隣に腰を下ろすと、優姫から奪ったタオルを両手に持った零が、少し乱暴に髪を拭いていく。
「わわわ!」
「大人しくしてろ」

逃げようとした所で零にぴしゃりと言われ、優姫は仕方なく抵抗を止める。最初こそぎこちなかった零の動きが優しいものに変わると、優姫は心地よさすら覚え、またくすくすと笑みを漏らす。

「突然笑うな、キモチワルイ」
「だって、今日の零。なんかお兄ちゃんみたい。いつも弟なのにね〜」

「そう思ってんのはお前だけだろ?」

零が意地悪くはっ、と笑う。けれどそれさえも心地よかった。こんな風に意地悪を言うけれど、その瞳は酷く優しい色をしていることを知っている。



こてん、と。優姫は自分でも気づかない内に、目の前の胸に頭を預けていた。自然と零の手が止まる。

「優姫?」
「少し寒くなっちゃった」
顔を上げずに、えへへと誤魔化すように笑う。咄嗟についた嘘。自分でも何でそんなことを言ってしまったのかわからない。

「……クーラー…消すか?」

 心配をしているのだろう。伺うよう零の声と共に、気遣うように頭を撫でる優しい手。

「ううん、大丈夫。ちょっと……冷えちゃっただけ、だから」

 知らず指に力が入り、零のシャツの胸元を握り締める。

───胸が痛くて痛くて、切ない。寂しい訳でもないのに、何故か目の前の零の胸に体を預けてしまいたい感覚。


「…優姫?」

名を呼びながら、零が下から優姫を覗き込む。その顔には「心配だ」とデカデカと書いてあるようだ。

「………何かあったのか…?」

 真剣な零の瞳に、喉が凍りついたかのように言葉が出ない。それでなくても、説明なんて出来ない。

───何もない。何もないのに、どうしてこんなに胸がざわつくのか。この温もりから離れ難いと思うのか、優姫にはまだわからない。
やっぱりあんな夢を見たせいで情緒が不安定になっているのだろうか?



「……優姫?」

何度目かの零の問いに、やはり優姫は答えることが出来ない。どうしよう、と俯いた優姫の体に突如柔らかな温もりが触れた。


「………寒いんだろ?」

 ぶっきらぼうな台詞とは裏腹に、労るような優しい抱擁。

「う、ん……」

本当は寒くも何ともないのだけれど、また口が勝手に動く。まるで待ち焦がれていたかのように、優姫の腕は零の背にしっかりと絡み付き、二人の隙間をなくした。
零が少し驚いた気配を感じたけれど、優姫は気づかないふりをする。瞳を閉じて、頑なに。

だって自分でもわからない、こんな気持ち。





「……これでも姉さん面か?」

しばらくして。
優姫のまだ濡れた髪を弄くりながら、口元だけくすりと笑い零が言う。

「随分と甘えん坊な姉さんだな」

「…………今日だけね」

 無性に悔しくて言い返した言葉を「ハイハイ」と軽く受け流す零が、何だか大人に見えただなんて。
絶対に教えてなんてあげない。










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春の月

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