スポンサーサイト



この広告は30日以上更新がないブログに表示されます。

前夜祭


「あ!」

 練習後の帰り道。
 隣を歩いていた香穂子が、嬉々とした声を上げてある店の前で立ち止まった。
釣られ月森もまた立ち止まり、香穂子の視線の先を追う。
きらびやかなショーケースの中には、色とりどりの洋菓子が並んでいた。

「そっか〜!もうすぐハロウィンだもんね。このケーキ凄く可愛い!」

 そう言って香穂子が指差す先には、かぼちゃで作られたモンブランが誇らしげにショーケースの一角を占拠していた。
その隣には、愛らしい幽霊型のクッキーが寄り添うように置かれており、いかにも女性が好きそうな可愛らしい雰囲気がそこにはあった。
その証拠に、ショーケースの前には香穂子の他にも数人の若い女性がおり、皆一様にきらきらとした瞳で商品を眺めている。

「ねえ、月森くん?」
「…………なんだ」

探るような声音。
下からちらりと向けられる香穂子の視線。
正直、嫌な予感しかしない。

「ちょっとだけ、ちょっとだけ寄り道しない?月森くんの分は私が奢るからさ。ね、お願い!この通り!」
「……日野」

ぱん、と音を立てて胸の前で手を合わせると、香穂子は月森に頭を下げる。
案の定の提案に、月森はやや大袈裟に溜め息をついた。
が、そんな月森の態度にめげることなく、眉を下げた笑顔のまま香穂子は一歩も引く様子はない。

「駄目、かな……?」

先程とは打って変わって悲しそうにそう言われれば、月森とて無慈悲に駄目だと言い切ることも出来ず。
結局は月森が折れ、少しだけだからな…と疲れを滲ませた声で言う。

「やったー!本当はここのケーキ、ずっと気になってたんだけど流石に一人じゃ入りずらくて。ありがとう、月森くん!」
「……全く。あまり長居はしないからな。あと、俺はいらないから君だけ食べるといい」
「え!月森くん、食べないの?」
「いや、俺は甘いものはそう得意ではないから」


そう言えば、だったらしょうがないね、と香穂子が申し訳なさそうな顔をする。
けれどすぐに、ここは紅茶も美味しいらしいよ!と満面の笑みを浮かべ笑った。



********************



 ショーケースで販売だけをしているのかと思いきや、その裏手には小さな入り口があり、その中で買った商品を食べることが出来るらしい。
こぢんまりとした店内は、広くはないが、居心地良く感じられた。
一度友人たちと寄ったことがあるらしい香穂子の後に続き、奥の窓際の席に腰を下ろす。

 表で注文していた香穂子のモンブランがテーブルに届くのと入れ替わりに、月森用のダージリンを香穂子が注文した。
彼女曰く、ここの紅茶の中で一番のオススメらしい。

 店内に入ってから、ずっとにこにこと機嫌良さそうにしていた香穂子だったが、念願のモンブランを前にしてより一層瞳をきらきらと輝かせている。
いただきます、と手を合わせ一口頬張ると、幸せそうに瞳を蕩けさせる。

「ん〜、美味しーい!!」

香穂子らしい分かりやすい表情の変化に、月森の頬も自然と緩む。
寄り道などめんどくさくもあったが、こんなちっぽけなことでこれだけ幸せそうな顔をされると、まあたまには寄り道もいいのかもしれない、と思ってしまう。


 二人で放課後練習をするようになってから、彼女とこうして練習以外の時間を共にすることが増えた。
お互いそれなりに気を許せる仲になったということなのか、香穂子もこうして月森を用事に付き合わせるようになった。
以前ならば、無言で月森が一睨みすれば諦めていた彼女も、もう慣れたらしくその程度では屈しない。
月森もまた、彼女をコンサートに誘うようになったし、嫌な顔をしながらも彼女の用事に付き合う頻度が増えている。
特に最近は、完全に彼女のペースだ。
けれど、それを心底嫌がっている訳でもなく、結局はまあいいか、と受け入れてしまう自分の変化が不思議でもある。


「あ、そうだ!月森くんも一口食べて見る?すっごく美味しいんだよ!」
「いや、俺は……」

「はい」

 突然の提案に戸惑う月森を他所に、香穂子は嬉しそうにケーキを一口分乗せたフォークを月森に差し出した。
躊躇いのない笑顔を浮かべる彼女は、この行動が第三者から見ればどう見えるか、など全く気にしていないようだ。
そう言えば、つい最近同じようなことがあったと思い出す。
あの時はケーキではなくたこ焼きで側には土浦と加地がいたし、冷静な土浦の突っ込みにより、事なきを得たのだけれど。

 そのまま月森は三秒程固まって、けれど結局は香穂子の邪気のない笑顔に負けて、控え目に口を開いた。
あーん、と香穂子がフォークを月森の口に運ぶ。
言い様のない気恥ずかしさを感じつつも、意識している様子のない彼女の手前、自分だけ動揺するのも何だか悔しい。
赤くなった頬を誤魔化すように、顔は自然と不機嫌を装う。
どう?とにっこり笑う香穂子から視線を逸らしつつ、ただ一言、甘すぎる、と答えた。



 どこか居心地の悪い思いをしている月森を救うように、丁度良いタイミングで店員が紅茶を持ちやって来る。

「お待たせ致しました。ダージリンでございます」

「ありがとうございます」
礼と共に受け取って、早速一口含むと口の中の甘さがすっと喉奥に流され消えた。
ほっ、と一息ついた月森の前で、香穂子は嬉しそうに店員の女性に話し掛ける。

「このケーキ、とっても美味しいです!」
「まあ、ありがとうございます。」

にこりと穏やかに笑った女性は、そっとポケットから何かを取りだし、香穂子の掌に乗せる。

「え、これ…?」

 可愛らしくラッピングされた袋の中には、表にあった幽霊のクッキーが数枚と、ハート型のクッキーが二枚入っている。
注文した覚えのない商品に香穂子が不思議そうに首を傾げると、女性は茶目っ気たっぷりの笑顔を浮かべた。

「この時期だけ、ご来店下さったお客様に無料でお渡ししているんです。仲良しの可愛らしいカップルには、ハートをおまけ、ね」

女性の『カップル』という単語に、香穂子の顔が真っ赤に染まる。

「カップルなんてそんなっ!!」

 慌てて否定する香穂子と頬を染め眉間に皺を寄せた月森を交互に見遣り、女性は微笑ましげに瞳を細め、失礼しますと去っていく。

 残された二人の間には、案の定、気まずい空気が横たわる。
目の前の香穂子といえば、あれほど美味しい美味しいと言っていたモンブランに手をつけることなく、真っ赤な顔で俯いてしまっていた。
ようやく先程の自分の失態に気がついたらしい。
動揺を隠せずにいる香穂子のその表情に、月森の溜飲が少しだけ下がる。


「か、か、帰ろっか!月森くん」
「ああ」

上擦った声で席を立つ香穂子に続いて、月森も席を立つ。
夕日より赤い顔をした香穂子見て、胸になんとも言えない気持ちが広がった。


気恥ずかしいし、居心地の悪さを感じたりもするけれど。

今の月森は、既にもう、こんな時間も嫌いではない。

続きを読む

ありがとう

*原作コルダの最終話、その後の妄想話です。ネタバレしまくりですので、「まだ最終話見てないよー!」って方は戻ってください。大丈夫な方はそのままどうぞ。































 秋と冬の間の、なんともいえない涼やかな風が吹き抜けていくのを感じながら、香穂子は月森の腕の中、未だ固まったまま動けずにいた。
さらり、と月森の前髪が頬を擽り、その近さにまた体の熱が上昇する。
もとより赤く火照っていた顔がより色づいていくのがわかり、恥ずかしくて、そんな顔を見せたくなくて、より月森の胸に顔を押し当てた。
柔らかな香りが香穂子の胸一杯に広がる。それは月森の香りだった。





演奏会が終わり、もしかしたら彼がいるかもしれないと、微かな望みをかけて学校に行き。
ふいに屋上から聞こえた旋律に、香穂子は脇目もふらず走り出していた。
案の定扉を開けば、そこにいたのは月森で。
あまりの偶然に驚いて、感動して、背筋がふるりと甘く震えた。
その激情のままに後ろから思いきり抱きついてしまったけれど、今思えば酷く恥ずかしかった。
決して後悔しているわけでも嫌なわけでもない。
けれど、無性に恥ずかしい。今の、この状況も。
心がふわふわして、落ち着かなくて。喉の奥がきゅんと痛む。
顔に籠る熱を逃がそうと息をふぅと吐き出すけれど、次に吸い込む息の甘さが、より羞恥心を煽るのだった。

それに、と香穂子は思う。あの月森の笑顔は反則だった。あんなに優しい瞳、これまで見たことがない。
好きだ、と瞳が言っていた。確かな愛情が、空気から溢れ出ていた。
恋愛初心者の香穂子が、そんな表情で見つめられることに慣れている訳もなく。あの優しい、優しすぎる瞳を少し思い出すだけでも、また鼓動が激しく脈を打つ。

ふいに、月森の腕の力が弱まり香穂子の体を解放した。
未だ恥ずかしく顔を上げることが出来ない香穂子に、ひとまず帰るか、と月森は言う。

「……うん」
「……もう遅いから、送ろう」
「……う、ん、ありがとう」

いつもと違う雰囲気に緊張して上手く言葉が紡げない自分を不甲斐なく思いながら、ちらりと月森の顔を伺い見れば、その頬もほんのりと淡く染まっている。
珍しい表情だな、と変なところに感心して、でも素直に可愛いなと思った。





とぼとぼと、電灯の灯りに二人分の影が並ぶ。
半年ぶりに月森と歩く帰り道は、会話がなくともいつもより特別に思える。
大通りを抜けてしまえば、香穂子の家がある住宅地。そこまで来れば道のりはもう僅かしかないため、二人の時間も終わってしまう。だから。
自宅までもう少しと言った所で、意を決し立ち止まったのは香穂子だった。
「あ、あの!」
香穂子の一歩前を歩いていた月森が、その声に立ち止まり振り返る。
「…日野?」
正面から重なる視線に、また体がかちんと固まってしまうけれど。
でも、香穂子はまだ月森の真っ直ぐな想いに答えを返してはいなかった。
まあ、突然香穂子から月森に飛び付いたり、月森も香穂子の答えなど聞かずに抱き寄せたことを踏まえれば、きっともう香穂子の気持ちなどバレているのだろうけれど。
もう逃げてしまうのは嫌だったから。ヴァイオリンからも、月森からも。だからこれはけじめなんだと自分に強く言い聞かせる。

さわり、と。
香穂子を後押しするように穏やかな風が吹き抜けた。
香穂子が月森に一歩踏み出す。
きっと顔はどうしようもないほど赤いのだろうけれど、震える心を叱咤して月森の瞳を見つめた。

「あ、あのね、」

伝わるように、届くように、一文字ずつ心を込めて紡いでいく。

「私、あの後、どうしても月森くんに会いたくて。それで学校に来たら月森くんがいて、本当に、嬉しかった…。また月森くんの音が聞けて、また月森くんに会えて……本当の本当に、嬉しかったんだよ…?」

「……ああ」

正面に立つ月森の手が、胸の前で固く握りしめられている香穂子の手を取ると、ゆっくりほどいていく。
そのままその手を取ると、きゅっと優しく包み込んだ。
その温かさに胸の奥が甘く痛む。

「えっと……それでね、あの……私も………好き」

好き、です、と。
一度声に出してしまえば、もう想いは止められなくて。
ああ自分はこんなにも彼を好きだったのかと思い知らされる。

「月森くんが、好き。好きです。………大好き」


ぽろぽろと、言葉が、気持ちが止まらない。
何故か喉が圧迫されて、最後の方は声が小さく掠れてしまったけれど。

「……君はずるいな」
小さく、困ったような声が聞こえて。
ふいにまた、香穂子は月森に抱き寄せられる。

「また、調子を狂わされた」
そう言って、くすりと笑い月森が香穂子の頭に頬を預けた。
先程のものより強い抱擁に、一瞬驚いて、けれど今度は満たされる気持ちの方が強かった。
これまで回すことの出来なかった腕を、おずおずと月森の背に回す。
ややあって、月森が、ありがとう、と囁いた。受け入れてくれてありがとう、と。とても、嬉しそうに言った。

香穂子は月森の胸に頬を擦り寄せる。
言葉だけでは伝えきれない想いが、全身から、全て彼に伝わればいい。
そう願いをこめて。

続きを読む

葛藤

 晴れ渡る青空に突き抜けるような高音が響いた。
流れるような音の洪水。
目まぐるしく切り替わる旋律の中心に彼は一人立っていた。

普段ならば声を掛けるところだけれど、今日はなんとなくそんな気分ではなくて。
香穂子は今開いたばかりの屋上へ続く扉を閉めた。
ガチャリと重く響く音が、香穂子の心に暗い影を落とす。
そのまま閉めた扉に凭れると、ふと息を吐いて瞼を閉じた。
扉一枚隔てた屋上からは、先程よりも少し遠くなった音がそれでも確かな質量を持って耳に届く。

心が、ざわつく。

圧倒的な差。到底追い付くことなど出来ない、距離。
それらのどうしようもない現実が、今更香穂子に襲いかかる。
聞きたくなくて耳を塞いでも、見たくなくて瞳を閉じても。
心が記憶してしまった鮮烈な青が脳裏をよぎり、香穂子を内側から乱していく。

最初は憧れだった。
彼みたいに弾けたら良いのにと毎日思い、必死になって練習した。そして、音楽にのめり込んだ。
けれど、今はどうだろう?
『憧れ』なんて綺麗な言葉で表せるような感情じゃなくて。
『執着』と呼ぶに相応しい熱情が自分の中で彼を追い求める。

彼の隣に並びたい、と思うようになってしまった。
あの素晴らしく美しい音色だけではなくて。
冷静で、不器用で、容赦がなくて言葉少ない、そんな優しいあの人を好きになってしまった。

恋を、してしまった。


気がつけばいつだって彼のことを思い描き。
けれど縮まることのない実力差に肩を落とす。


音楽に恋をすれば良かった、と香穂子は思う。
そうすれば、何に縛られることもなく、自由に楽しく弾けたのに。





続きを読む

夏影





 空高く昇る太陽と、けたたましく鳴きわめく蝉の声が、今の季節を伝えている。

 月森は一人、通学路を歩いていた。まだ9時前だというのに、照りつける太陽は容赦ない。
時折遠慮がちに風が吹くものの、生温いそれは気持ちよいものではなく、逆に不快感すら煽りかねない。
 額や首もとに浮かぶ汗の玉を持参したハンカチで拭き取りながら、月森は目的の場所へ急いだ。


 今、ほとんどの高校は長期休暇、いわゆる夏休み中であり、月森の通う星奏学院も例に漏れずその一つである。
しかし夏休み中と言えども学院は音楽科生徒のために練習室を開放しており、月森もまたそこを利用している人間の一人だ。
 やはり学院で練習をしたほうが集中出来るし、何より図書館があるため疑問に思った点をすぐに調べられる。自宅から学院まで、そう離れていないことも理由に含まれるだろう。


 ただ、問題なのはこの暑さ。あまり表情に出にくいため周りには理解されないが、月森だって暑いものは暑い。
よく友人からは「こんな暑いのに、月森はいっつも涼しい顔してるよな〜」とぶつぶつ言われるけれど、月森だって涼しいわけではない。
ただ暑いからといって、だらしない格好や言動をするのは如何なものかと思うだけだ。


 そんなことを考えながら、月森は校門を抜ける。
グラウンドで精を出す部活動生の声をどこか遠くで聞きながら、早速練習室へと向かった。
校舎内に入れば、頭上からの日光が遮られるため、ほんの少し楽になる。外気よりもひんやりとした空気が心地よい。

 かつかつ、と靴音を響かせながら、月森は予約していた練習室へと歩を進める。さあ今日は何から弾き始めようかと頭の片隅で考えながら、予約していた練習室のドアノブに手をかけた瞬間。

 聞き覚えのある音が聞こえた。拙くけれど一生懸命で。どこか胸に響く素直な音色。

「……日、野…?」

 月森は、思わずその音の聞こえる2つ程奥の練習室に足を進めた。小窓から覗き込めば、予想していた人物が楽譜とにらめっこしながら必死に指を動かしている。
これでも月森は朝早く出てきたつもりだったのだけれど、彼女の様子を見る限り、つい先程練習を始めたようには見えない。一体何時から練習していたのだろう。


 練習室の中の日野は、動かしていた手を止めヴァイオリンを下ろすと、険しい顔で楽譜を目で追っては首を捻っている。わからないところでもあるのだろう。
今までの月森ならば放っておくところだろうが、今は素直に手を貸してやりたいと思う。彼女の音色がどう変化していくのか、知りたいと思う。
その努力を目の当たりにした今ならば、尚更。

 そんな自分の変化に少し驚きつつも、自分の練習のことも忘れてノックをしようと片手をあげかけたその時。

日野の肩に、誰かの手が伸びた。

 振り返った日野は、険しい顔から一変、満面の笑みを浮かべるとその人物に向き直る。赤みのある髪、穏やかな相貌。あの人は。

「王崎先輩…」

 星奏学園のOBでありながら、未だにオーケストラ部にも顔を出している心優しい、月森とは正反対の穏やかな雰囲気を持つ人物。きっと日野が、王崎先輩に練習を見てほしいと頼んだのだろう。

 何を話しているか、ここからはわからないけれど、何だかとても楽しそうだった。日野も、そして王崎先輩も。
確かに王崎先輩ほど、講師役で適任な人物はいないだろう。日野との付き合いも長いため悪い癖なども理解しているし  一番大切なことであるが  その実力などは言わずもがなだ。


 ああ、これならば自分が教える必要もないな、とちくりと痛む胸で思う。どうしてこんなことで落ち込んでいるのか。わかりそうでわからないこの妙な気持ち。

思わず口をついて出た溜め息は、思った以上に重い響きを持って。どこか苦い気持ちを抱えながらも、月森はさっと踵を返すと自分の練習室へと向かう。
また響き始めた軽やかな音色を背に聞きながら、月森はガチャリと練習室の扉を閉めた。
いつも聞き慣れているその音が、今日はどこか胸に重くのし掛かる。知らず知らずヴァイオリンケースを持つ手に力が入り、暗く沈みがちな思考を遮るように瞳を閉じた。
続きを読む

だからこそ、何度でも



 ふと壁にかかる時計を見やれば、もう下校時刻を5分程過ぎていて。
 月森の視線の先を辿るように同じく時計に視線を移した日野が、「もうこんな時間!?」と慌てて演奏を止めヴァイオリンをケースにしまう。
 そんなに慌てることはないと言おうとしたのだけれど、あまりにアワアワとした日野に目を奪われて、月森は口元だけでクスリと笑んだ。

「ごめんね月森くん、こんな時間まで付き合わせちゃって……」
「いや、気にすることはない。気づかなかった俺にも責任がある」

 そう言えば、「月森くんは悪くないよ!ほんとにごめんね…」と申し訳なさそうに日野が項垂れる。
 こうなってしまえば月森が何を言った所で全て自分のせいだと日野に言われてしまうことはわかっていたから、「…早く帰ろう」と月森もまとめていた荷物を持ち練習室の扉を開いた。



「誰もいないね」
「………そうだな」

 12月に入り、日が落ちるのも早くなった。窓から差し込むのはもう赤い陽光ではなく、静かな月の光。
 しんと静まり返った閑散とした校舎に、二人分の靴音だけが響く。


「あー、何だか緊張してきちゃったな……コンクール」

 あはは、と苦笑をこぼしながら日野が呟くように言う。その表情がどこか切なくて、月森は日野に向けていた視線をふいと下にずらした。


「………君は君なりの演奏をすればいい」

 我ながら陳腐な慰めだと思ったけれど、どうしてか他の言葉は出てこない。
 それこそ土浦ならばもっと気の効いた言葉の一つや二つ言えるのかもしれない、と考えたところでどうにも面白くなどなくて。
 何となく横目で伺えば、少し驚いたように目を見開いた後、「ありがとう」と綺麗な顔で彼女は笑った。


 校舎から一歩踏み出せば、夜の冷気が容赦なく二人を襲う。吐き出す吐息は白く、それが余計にこの寒さを強調しているようだった。


「さ、さ、寒ーい!」

 日野も月森も学校指定のコートを着用しているけれど、どうしたって寒いものは寒い。
 女性は寒さが苦手だと聞くし、日野は足を出しているから月森よりも辛いだろう。

 先程から隣でカタカタと震えている日野をよく見れば、いつも首に巻かれているマフラーが見当たらず、晒された首もとが風に吹かれて寒々しい。

「……マフラーは?」
「………………今日、寝坊しちゃって…その……忘れちゃった…」


 自分のミスだという自覚はあるらしくたっぷり数秒の間を開け、厳しい月森の視線から逃げるように瞳ををうろうろとさ迷わせながら日野が話し出す。
 あははは、と空笑いを繰り返す日野の前で、月森は盛大に溜め息を吐き出した。

「コンクール前に、風邪でもひいたらどうするんだ」
「あ、でも!私、結構体強いんだよ!だから大丈夫大丈夫!」

 そう言ってブンブンと胸の前で手を上下させる日野に。

「──…まったく」

 月森は言葉とは裏腹な優しい表情で己のマフラーを外すと、 日野の細い首に巻き付けてやる。


「つ、月森くん!ほんとに私大丈夫だからっ!」

「…………………」


 始めこそ抵抗を見せたものの、反応を返さずに黙々とマフラーを巻く月森に日野も諦めたのか、段々とされるがままになっていく。

「これじゃ月森くんが風邪ひいちゃうよ……」

 苦し紛れだろうか、日野の口から漏れた力ない呟きに、月森はまたゆるりと頬を緩めた。

「俺は自分の体調管理くらい出来るが?」
「……うっ!……す、すみません」


 尻すぼみになる日野の声。その素直な心根がとても好ましい。
 日野との会話が途切れたところで何となく夜空を見上げれば、一面に広がる星達の光が感傷の花を月森の心に開かせる。
 ひっそりと、隙間に入り込むように心の底に沈む願いを浮かび上がらせる。


 けれど、こんな。あまりに身勝手な願いだ。わかっている。わかっている。

 ──…それでも、それでも。こんな日がいつまでも続けばいいのにと思う。
 叶わぬ願いだと知りながら、それでもあとほんの少し、彼女の側にいたいと願う。その指先が生み出す音楽を聞いていたいと願う。

 ──……けれど、期限はもう僅か。



「このマフラー、明日には絶対返すから!!」
「………ああ、明日…」

「うん、また明日ね!」


 ──…また明日。これほど今の自分が恋い焦がれる言葉はないだろう。
 もう言えなくなるだろうその言葉を。


「また明日」

 自分に言い聞かせるように、呟いてみる。
 言葉はすぐに闇に溶け、吐息は白く曇って霧散した。
続きを読む
前の記事へ 次の記事へ