*風間×千鶴
はやく、はやく。
はやく皆に追いつかなくちゃ。
千鶴はその一心で、暗闇のなか必死に足を動かしていた。
息も荒く、胸も苦しい。
気を抜いてしまえば、そのまま倒れこんでしまいそうな程疲れ果てた体を、気力を振り絞ることで叱咤する。
「……待って…!行かないで…」
荒い呼吸の合間に絞り出した悲痛な叫びも彼らには届いていないのか。
あさぎ色の羽織は、どんどんと遠ざかっていく。
追いかけても追いかけても、距離は縮まるどころか益々広がっていった。
────どうして…?なんで追いつけないのっ……
千鶴の中に諦めに似た絶望が広がってゆく。
どさり、と音がして膝と額を激しい痛みが襲った。
どうやら転んだらしい、と気がついてけれど立ち上がることが出来ない。
限界だった。
体は鉛のように重い。
追いかけたいのに。
追いかけなくてはならないのに。
千鶴の唇がわななき、声にならない吐息が漏れる。
動かない自分の体が悔しくて、彼らの姿が遠ざかっていくのが悲しくて。
千鶴は倒れこんだまま、背を丸め泣きじゃくった。
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「……っ…」
それは、耳を済ましていなければ聞こえない程の小さな声。
またか、と思うと同時に風間は手に持っていたお猪口を脇に置くと、音も立てずに立ち上がった。
向かう場所は簡易な仕切りの反対側。
まだ幼さの残る少女──雪村千鶴の寝床である。
『新撰組の後を追う』
そう決意した少女に手を貸してやろうと思ったのは、只の気まぐれに過ぎなかった。
確かに新撰組の人間には少なからず興味を持っていたけれど、これまでの風間ならばわざわざ自らの手を煩わすことなどなかっただろう。
ただ千鶴の手を引いて、そのまま無理矢理にでも里に連れて行けば良かった。
けれど、ただ何となく。
その瞳と同じ真っ直ぐさで、風間を見上げた少女を面白いと思った。
嫌悪でも畏怖でもなくただ真っ直ぐに、その瞳に強い意志を宿して風間と対峙した女。
その手はやはり少しだけ震えていたけれど、女にはそのくらいの愛嬌があったほうが丁度よい。
そうして始まった二人の旅だが、どうしても後手後手にならざるを得ず、未だに新撰組に追い付けずにいる。
風間と千鶴が進めば進む程、面白いように新撰組もまた北へ北へと北上していた。
まるで趣味の悪い鬼ごっこのような有り様である。
一つの部屋の中を仕切る、鮮やかな装飾を施された仕切り。
一目でそこそこ高価なものと分かるその仕切りの反対側へ回りこめば、先程まで風間の思考を占めていた少女が布団にくるまって眠っている。
流石に女に野宿をさせる訳にはいかないと、最近はこうして宿を取ることが増えた。
最初こそ千鶴は「野宿で構いません!」と意見してきたけれど、風間が「貴重な女鬼に体を壊されたら困る」と一蹴すれば、何かしら言いたそうにしていたけれど、大人しく風間の言うことを聞くようになった。
それから数日が経ち、気づいたことがある。夜な夜な一人晩酌をしている風間の耳に届く、小さな声。
始めは寝言でも言っているのだろうと思っていたのだが、ふと気配を消して千鶴の側へ腰を下ろせば、彼女は深い眠りの中にありながら、白い頬にいくすじもの涙の跡を残していた。
────気丈な女だと思う。
まだ幾分幼さの残る少女といえど、そこはやはり京で人斬りと恐れられた新撰組と共にあった女か。
決して楽とはいえないこの旅の途中、一度足りとも風間の前で弱音を吐いたりはしなかった まあ、ただ単に風間に心を許していないだけなのかもしれないが。
それでも、大の男ですら怯む風間のひと睨みに耐えうるのだから、やはりその根性は称賛に値するのだろう。
「……待っ……て…」
静寂の中、少女のか細い声だけが響く。
きゅっと眉が悲しげに寄せられ、その拍子に閉じられた瞳からぽろりと滴が溢れた。
まったく。
風間は自らの指で、そっとその涙を拭った。
「いかな……で…」
迷子の子供の如く、縋るように伸ばされる千鶴の指を出来るだけ柔らかく握ってやれば、自分のものではない体温に安心したのか、硬く強張っていた表情がゆるゆると弛んでゆく。
穏やかな吐息が聞こえ始める頃には、頬を濡らす涙はすっかり乾いていた。
「……やれやれ」
千鶴を起こしてしまわぬよう、抑えた声音で風間が呟く。
泣くのならば、この胸くらい貸してやるというのに。
その辺の女ならば別だが、千鶴にならばこの着物を涙で濡らされたところで怒りはしないだろう。
それくらいには千鶴を気に入っている。
握った手はそのままに、空いたほうの手で千鶴の乱れた前髪をすいてやる。
ん、と微かに身動ぎしたが起きる気配はない。
このまま手に納まる華奢な指を離し、酌の続きに戻っても良かったのだが、どうにもこの温もりを手離すのも惜しい気がして。
「……まあ、これもこれで一興か」
誰に言うでもなく呟くと、風間は口元だけでふっ、と笑った。
もしこの場に天霧がいたならば「貴方がそんなことをするなんて珍しい」と苦笑をこぼすのだろうが、情報収集のため北へ走らせている今ならば、その心配もない。
とある宿の一室。
開かれた窓から射し込む月光が、二人の男女の影を浮かび上がらせる。
ぐっすりと眠るあどけない少女の傍らに腰かける、月明かりと同じ色の髪を持つ美しい男。
その造形のはっきりとした、どこか冷たささえ感じられる表情とは裏腹に、その緋色の瞳は暗闇の中の灯火のように暖かい。
遠慮がちに繋がれた指先は、それでも決して離れることなく、空が白み始め少女が目を覚ます時まで離れることはなかった。