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夏日

*斎千




「お疲れさまです、斎藤さん」
「ああ、雪村か」

巡察から戻った斎藤の元に小走りで駆け寄った千鶴が、そっと濡れた手拭いを差し出す。

「はい、どうぞ。今日は暑いですからこれで汗を拭いてください」
「ああ、すまない。有り難く使わせて貰う」

表情を緩めて礼を言えば、千鶴も嬉しそうにニコリと笑った。
普段からあまり顔色を変えない斎藤も、暑いものはやはり人並みに暑いと感じている。ただ表情に出にくいだけだ。
今日は真夏日だったからか、普段の倍近く汗をかいていているため、今回のような千鶴の気遣いは有難い。

汗の滲む額を拭えばよく冷えた手拭いが思いの外気持ち良く、火照った顔を冷ましてゆく。

「……気持ち良いな」

無意識に呟いた斎藤の言葉に、お役に立てて嬉しいですと千鶴が微笑む。
ちらりと千鶴を見れば、彼女も屯所で動き回っていたのだろう、こめかみから汗が滲んでいた。
自分のことより他人を優先出来る所は千鶴の長所だけれど、そのお人好しさが逆に少し心配だと斎藤は思う。

「あんたは大丈夫なのか?」
「え、何がですか?」

こてんと首を傾げる千鶴は全く何を言われているかわからないようだ。
首を傾げた拍子に汗がたらりと千鶴の首筋を伝い落ちていく。

千鶴は自分が鬼であるという事実を過信し過ぎている節があり、人よりかなり無理をする。
鬼はただ治癒力が高いというだけであり、無茶をすれば倒れることもあるというのに。

斎藤は自分の額に当てていた手拭いをもう一度畳み直して、冷たい面を上にすると汗の流れる千鶴の頬にそっと当てる。
千鶴はひやりとした感覚に一瞬びくりと肩を震わせたものの、すぐに肩の力を抜くと気持ち良さそうに瞳を細めた。

「冷たくて、とても気持ちいいですね」
「あんたは働きすぎだ。少し休んだほうがいい。こんなに汗をかいて……」

そう言って千鶴の汗の流れる頬から首筋に手を滑らせた、瞬間。


ひゃん!

この場にそぐわない、妙に甲高い声が千鶴の唇から漏れた。
不意討ちに瞳を見開いた斎藤の前で、千鶴が慌てて口を両手で押さえるがもう遅い。
羞恥で顔を真っ赤に染める千鶴に釣られるように、斎藤の頬にも熱が集まる。
一気に体温が上昇した。

「あ、すまな…」
「す、すみません!!!!」

斎藤が慌てて手を引っ込め謝ろうとするより先に、真っ赤になった千鶴が踵を返し逃げるように走り去る。

変な下心はなかったとは言え、俺は嫁入り前の女子に何てことをしてしまったのだ……。
斎藤は一人、赤い顔のまま固まったように動かず、自らの思考の波に沈む。

早く雪村を見つけて謝らねば。いや、しかしもう俺の顔など見たくないかもしれない。
いや、だがやはり……。





その後、たまたま通りかかった平助が動く気配のない斎藤の名を、根気強く呼び続け。
半刻程してようやく意識を取り戻した斎藤が、慌てて千鶴を追いかけ始めるのだが、それはまた別の話。
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鬼にもなれば仏にもなる




月明かりが差し込む部屋の中、千鶴は敷かれた布団の上で膝を抱え身を縮こませる。
どうして、どうして父様。何故あんな物を作ってしまったの。
心の中で何度も繰り返すその問いに答えなど返ってくる筈もなく。
堂々巡りの問い掛けだけが、千鶴の頭を支配する。


人を鬼に作り替えてしまう妙薬、変若水。そして新政府軍に存在する大勢の羅刹隊を産み出したのは、千鶴の父、綱道だった。
裏切られたと思うのは、何だかかんだとありながらも心の奥底ではまさか父がそんなことをするはずがないと信じていたからだろうか。
しかし、今その淡い期待も打ち砕かれた。

千鶴を守り支えてくれた新撰組の力になりたいと千鶴は思う。
けれどその新撰組の進む道を阻むのは、最愛の自分の父親なのだという事実が千鶴の心を深く抉る。


信じられない。信じたくない。
けれど、それが、事実。

先程からじわりじわりと浮かんでいた涙がついに溢れ、ぼろぼろと熱い滴が頬を伝う。
漏れそうになる嗚咽を堪えるため強く唇を引き結んだ。より膝を抱え込み、強く強く頭を膝に埋める。


泣いたって何も変わらないのに。泣くな、馬鹿。


そう自分を叱咤するけれど、涙も嗚咽も止まってはくれない。
自分の非力さと皆への申し訳なさ、父親への怒りと愛しさ、それらの感情がごちゃごちゃになって波のように心に押し寄せた。
ごめんなさい。ごめんなさい。
誰に言うでもなく、心の中で何度も繰り返す。
時折引き結ばれた唇から漏れる、小さな嗚咽混じりの吐息だけが千鶴の聴覚に響いた。


ぎしり。
細やかな夜風が葉を揺らす音と千鶴の嗚咽に混じって、小さな踏み鳴らす音が鼓膜に届く。
その音は段々と大きくなり、千鶴の部屋の前で止まった。
一拍置いて、千鶴、と名を呼ぶ声がする。
無骨で厳しくて、それでいて深みのある声。

「土方さん……?」
「……入るぞ」

言うやいなや、ガラリと障子戸が開かれ月明かりに照らされた土方の姿が目に映る。
一瞬、その端正な顔立ちに瞳を奪われ、けれど今の自分の悲惨な顔を思いだし慌てて姿勢を正して顔を伏せた。

「な、何か御用でしょうか?」

上擦る声を誤魔化し、平静を装いつつ声を紡ぐ。
落とした目線の先、無意識にぎゅっと寝間着を握り締めた自分の両手が見えた。
続く沈黙。顔を伏せていても感じる、土方の鋭い視線に益々頭が下がる。

「……ったく」

先にその沈黙を破ったのは、土方の投げやりなようで柔らかな含みを持つ呟きだった。
土方は布団の上できちっと正座する千鶴の前に腰を下ろすと、右手を伸ばし千鶴の顎を捉える。
くいと持ち上げるその力に抗える筈もなく、あっけなく土方の前に千鶴の涙の残る顔が晒された。

「あ、あの」

何か言わねばと思うけれど、結局何も言えずに押し黙る。
間近で見る土方は不機嫌な顔をしていたけれど、すぐに困ったような顔で苦笑を浮かべた。

「餓鬼がこんな時間に、一人で泣いてんじゃねーよ」

そう言って、千鶴の瞳に残る涙を指の腹で拭う。
ぞんざいな口調とは裏腹に、その手つきはどこまでも優しい。

「泣いてたって何も変わらねぇだろうが。………お前は何の責任を感じる必要もねぇ。だからもう泣くな」

そう言って、大きな手が千鶴の頭をぽんぽんと叩く。もう何もかも土方にはお見通しのようだ。
いつもの鬼副長のものではない優しい眼差しが千鶴を見つめる。
引いた筈の涙がまたじわりと目尻に滲むと、土方は再度困ったように笑った。

「まあ、どうしても泣きたい時には美味い茶持って俺のとこに来い。愚痴くらいは聞いてやるよ」

はい、と言おうとした千鶴の口から漏れたのは意味もない嗚咽ばかりで、せっかく土方に拭ってもらった頬がまた涙で濡れていく。
あやすように背を撫でる大きな手が嬉しくて、千鶴はそっと土方の胸に寄り添った。

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春風

*土千



真上には、どこまでも青い空が広がっている。
季節はもう春を迎えようとしていた。
けれど暖かな陽気とは裏腹に、時折吹き荒ぶ風はまだ冬の余韻を残している。

その中でいつものようにちょこまかと、何がそんなに楽しいのか、にこにこと笑顔で庭先を掃いている少女。
風はまだ、切れるように冷たい。
全く、と土方は溜め息を着いた。
体を壊したらどうする。
庭先を見下ろす縁側から、その小さな背に声を掛けようとしたその時。
ざわざわと、葉が鳴った。
続いて全身を襲う冷たい強風に、鬼の副長も思わず顔をしかめる。
所謂『春一番』と言われる強風が、屯所を盛大に吹き抜けた。


ひりひりと、風が駆け抜けた肌が痛む。
あいつは大丈夫か、と声を掛けようとして、けれど土方の喉から言葉が漏れることはなかった。

春独特の、包み込むような柔らかな陽光と輝かしい新緑の中で。
風に思い切り弄ばれた髪を指先で整えているのは、土方のよく知る少女ではなくもう立派な一人の『女』だった。
何がそう思わせるのかは、よくわからない。
瞳か仕草か、雰囲気か。
子供だ子供だ、と思い込んでいた少女はもう『女』になってしまったのだと。
この時土方は唐突に理解した。
理解せざるを得なかった。
それほどの変化が、目の前の彼女にはあった。

「あ、土方さん」
何かご用ですか、と嬉しそうに千鶴がひとつに結った髪を揺らし駆けて来る。
「ああ、いや…」
にこりと微笑む少女の笑顔に、土方は曖昧に苦笑を溢した。
それは、もしかしたら自嘲だったのかもしれない。
きょとんと首を傾げた千鶴の頭をぽんぽんと軽く叩く。
「……今日は風が冷えるからな。お前の淹れる茶を飲みたくなった」
そう言えば、はい、とほんのり頬を染めて千鶴は笑った。
眩いその表情に、土方は目を細める。
「でしたら、今すぐお茶を淹れて参りますね!土方さんはお部屋で待っていてください」
律儀にぺこりと頭を下げ、少女は駆けていく。


「ったく。どうしたもんかな……」
土方の小さな独り言は、風に流されて瞬く間に消えた。

少女は恋をすると女に変わるのだと、以前島原で聞いたことがある。
男が思っているよりあっという間の出来事。
恋を知ることで蕾となり、愛を得ることで艶やかに咲くのだと、あの時は酒のつまみ程度に聞き流していた戯言が真実味を持って胸に迫る。
殊更満更でもない自分に、呆れを通り越して笑いすら込み上げた。


さらさらと、先程よりも柔らかな風が土方の頬を撫でてゆく。
出会いと別れを引き連れて、新たな風が人を、組織を、世界を、変えようとしている。

見上げた空は、やはりどこまでも青。
春がもう、すぐそこまで迫っていた。
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後悔先に立たず

*斎千




 「くしゅん」と庭から聞こえた小さな音に、思わず斎藤は足を止めた。
音のした方に顔を向ければ、頬と鼻の頭をほんのりと赤く染めた千鶴が指先に息を吹き掛けていた。
京の冬は厳しい。江戸から必要最低限の荷物だけを持ち京へ来た千鶴が、防寒着など持っているはずもなく。
普段の薄桃色の着物だけでは心もとないだろうに、泣き言も言わず今も雑事に勤しんでいる。

その視線に気づいたのか、千鶴がふとこちらを振り返った。
「斎藤さん!」
途端その顔に浮かぶ笑顔に、つい斎藤の口元も緩む。

「どうかされましたか?」
「いや、ただ通りかかっただけだ。気にするな」

そう言えば「そうですか…」と千鶴が少し肩を落とす。大方仕事を頼まれると張り切っていたのだろう、隊士でもないのだから雑事などする必要もないというのに、彼女は率先して仕事を引き受けようとする。
世話になっているという罪悪感か、はたまた元から働き者なのか、まあどちらも当てはまるのだろう。
 分かりやすくしゅんと俯いた目の前の少女に、斎藤は苦笑を溢す。その際に露になった細く雪のように白い首筋に、先程の小さなくしゃみを思い出して。


「あんたは寒くないのか?」

それは、口に出せば酷く間抜けな質問に思えた。答えなど聞くまでもなく、寒いに決まっている。けれどきっと彼女のことだ。控えめな笑みを浮かべ心配をかけまいと「大丈夫です」と言うだろう。
案の定、千鶴は柔らかく笑んで「大丈夫です」と斎藤に告げた。

動いていればそんなに寒くはありませんし、こう見えても私寒さには強いんです!
でも、心配して下さってありがとうございます

と。
赤く染まった頬と微かに震える指先を携えて。けれどそんなこと何でもないことのように、千鶴は微笑む。


「全く……」
はあ、と一つ息をつき、斎藤は自らの首筋を覆う白い布を取り外すと、きょとんと瞳を瞬かせる少女の首にぐるぐると巻き付けた。
冷たい空気が一瞬にして斎藤の首筋を襲い、こんな寒さの中彼女は働いていたのかと思うと胸が痛んだ。
「さ、斎藤さん?」
思わぬ斎藤の行動に慌てる千鶴をそのままに、その小さな指先に手を伸ばす。
かじかんだ指先は氷のように冷たかった。少しでもましになれば、と固くなった指先をゆるゆるとほどき、やんわりと熱を移していく。

「……女が体を冷やすのは良くないと聞く。ここでは男の身なりをしているが、あんたも女だ。それに……風邪でもひかれたら隊務にも支障をきたす」

 あえて最後にきつい言葉を添えれば、千鶴は「……すみません」と眉尻を下げた。
千鶴はどうも自分を過信している節がある。
それは彼女が鬼の種族で、規格外の治癒力を備えていることに起因しているのだと思うが、余程のことがない限り死ぬことはないと自分の体を酷使しようとするのだ。
けれど鬼といえども風邪をひくし、熱に魘されることもある。特別治癒力が高いとはいえ、その辺りは人間とそう変わらないのだ。
だからこそ、彼女にはもっと自分を大切にして欲しかった。
 それこそ女の扱いに長けた左之ならばこんな時上手いこと言うのだろうが、生憎、斎藤はそんな芸当など持ち合わせていない。
だからこれが、斎藤なりの精一杯。彼女を心配する気持ち。

 尚も指先を暖めて続けていた斎藤の手を、千鶴がきゅっと握り締める。
下げていた視線を上げれば、千鶴の瞳とぶつかった。
「ありがとうございます、斎藤さん」
そう言って、半分首巻きに顔を埋めながらも、屈託なく千鶴は笑った。
伝わった気持ちに嬉しさを覚えながらも、どうにも気恥ずかしくて「いや、」と言葉を濁す。

「斎藤さんのお陰で、大分指先も暖まりました」
「そうか、なら良かった」

はい!と嬉しそうに頷く千鶴に柔らかな笑みを浮かべながら、そろりと握っていた手を離す。
自分から離した癖に無くなった温もりが酷く恋しくて、そんなことを考えている自分に苦笑する。
暖めようと伸ばした指先に残る、自分のものではない体温。それはまるで日だまりのように、じんわりと斎藤の心を温めた。

笑顔の彼女から視線を下にずらせば、先程までこの手に収まっていた小さな掌が見える。
頼りなく、ぶらぶらと北風に揺れる自らの腕と見比べて。


──────まだ離さなければ良かった、と。


後悔したところで後の祭り。
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月夜の晩酌

*風間×千鶴







はやく、はやく。
はやく皆に追いつかなくちゃ。
千鶴はその一心で、暗闇のなか必死に足を動かしていた。
息も荒く、胸も苦しい。
気を抜いてしまえば、そのまま倒れこんでしまいそうな程疲れ果てた体を、気力を振り絞ることで叱咤する。

「……待って…!行かないで…」

 荒い呼吸の合間に絞り出した悲痛な叫びも彼らには届いていないのか。
あさぎ色の羽織は、どんどんと遠ざかっていく。
追いかけても追いかけても、距離は縮まるどころか益々広がっていった。


────どうして…?なんで追いつけないのっ……
千鶴の中に諦めに似た絶望が広がってゆく。
どさり、と音がして膝と額を激しい痛みが襲った。
どうやら転んだらしい、と気がついてけれど立ち上がることが出来ない。

限界だった。
体は鉛のように重い。

追いかけたいのに。
追いかけなくてはならないのに。
千鶴の唇がわななき、声にならない吐息が漏れる。
動かない自分の体が悔しくて、彼らの姿が遠ざかっていくのが悲しくて。
千鶴は倒れこんだまま、背を丸め泣きじゃくった。




************



「……っ…」

それは、耳を済ましていなければ聞こえない程の小さな声。
またか、と思うと同時に風間は手に持っていたお猪口を脇に置くと、音も立てずに立ち上がった。
向かう場所は簡易な仕切りの反対側。
まだ幼さの残る少女──雪村千鶴の寝床である。



『新撰組の後を追う』
そう決意した少女に手を貸してやろうと思ったのは、只の気まぐれに過ぎなかった。
確かに新撰組の人間には少なからず興味を持っていたけれど、これまでの風間ならばわざわざ自らの手を煩わすことなどなかっただろう。
ただ千鶴の手を引いて、そのまま無理矢理にでも里に連れて行けば良かった。

 けれど、ただ何となく。
その瞳と同じ真っ直ぐさで、風間を見上げた少女を面白いと思った。
嫌悪でも畏怖でもなくただ真っ直ぐに、その瞳に強い意志を宿して風間と対峙した女。
その手はやはり少しだけ震えていたけれど、女にはそのくらいの愛嬌があったほうが丁度よい。

 そうして始まった二人の旅だが、どうしても後手後手にならざるを得ず、未だに新撰組に追い付けずにいる。
風間と千鶴が進めば進む程、面白いように新撰組もまた北へ北へと北上していた。
まるで趣味の悪い鬼ごっこのような有り様である。




 一つの部屋の中を仕切る、鮮やかな装飾を施された仕切り。
一目でそこそこ高価なものと分かるその仕切りの反対側へ回りこめば、先程まで風間の思考を占めていた少女が布団にくるまって眠っている。
 流石に女に野宿をさせる訳にはいかないと、最近はこうして宿を取ることが増えた。
最初こそ千鶴は「野宿で構いません!」と意見してきたけれど、風間が「貴重な女鬼に体を壊されたら困る」と一蹴すれば、何かしら言いたそうにしていたけれど、大人しく風間の言うことを聞くようになった。
 それから数日が経ち、気づいたことがある。夜な夜な一人晩酌をしている風間の耳に届く、小さな声。
始めは寝言でも言っているのだろうと思っていたのだが、ふと気配を消して千鶴の側へ腰を下ろせば、彼女は深い眠りの中にありながら、白い頬にいくすじもの涙の跡を残していた。


────気丈な女だと思う。
まだ幾分幼さの残る少女といえど、そこはやはり京で人斬りと恐れられた新撰組と共にあった女か。
決して楽とはいえないこの旅の途中、一度足りとも風間の前で弱音を吐いたりはしなかった  まあ、ただ単に風間に心を許していないだけなのかもしれないが。
それでも、大の男ですら怯む風間のひと睨みに耐えうるのだから、やはりその根性は称賛に値するのだろう。


「……待っ……て…」

 静寂の中、少女のか細い声だけが響く。
きゅっと眉が悲しげに寄せられ、その拍子に閉じられた瞳からぽろりと滴が溢れた。
まったく。
風間は自らの指で、そっとその涙を拭った。

「いかな……で…」

迷子の子供の如く、縋るように伸ばされる千鶴の指を出来るだけ柔らかく握ってやれば、自分のものではない体温に安心したのか、硬く強張っていた表情がゆるゆると弛んでゆく。
 穏やかな吐息が聞こえ始める頃には、頬を濡らす涙はすっかり乾いていた。

「……やれやれ」

千鶴を起こしてしまわぬよう、抑えた声音で風間が呟く。
泣くのならば、この胸くらい貸してやるというのに。
その辺の女ならば別だが、千鶴にならばこの着物を涙で濡らされたところで怒りはしないだろう。
それくらいには千鶴を気に入っている。

 握った手はそのままに、空いたほうの手で千鶴の乱れた前髪をすいてやる。
ん、と微かに身動ぎしたが起きる気配はない。
このまま手に納まる華奢な指を離し、酌の続きに戻っても良かったのだが、どうにもこの温もりを手離すのも惜しい気がして。

「……まあ、これもこれで一興か」

誰に言うでもなく呟くと、風間は口元だけでふっ、と笑った。
もしこの場に天霧がいたならば「貴方がそんなことをするなんて珍しい」と苦笑をこぼすのだろうが、情報収集のため北へ走らせている今ならば、その心配もない。



とある宿の一室。
開かれた窓から射し込む月光が、二人の男女の影を浮かび上がらせる。
ぐっすりと眠るあどけない少女の傍らに腰かける、月明かりと同じ色の髪を持つ美しい男。
その造形のはっきりとした、どこか冷たささえ感じられる表情とは裏腹に、その緋色の瞳は暗闇の中の灯火のように暖かい。
遠慮がちに繋がれた指先は、それでも決して離れることなく、空が白み始め少女が目を覚ます時まで離れることはなかった。
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