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パーティーナイト

*王国パロ





 天井にはきらびやかなシャンデリアが輝きを放ち、一面大理石の床を覆う真っ赤な絨毯は一目で一級品だと分かる代物。室内に並べられたテーブルを飾るのは純白のテーブルクロス。
テーブルには、王族主宰の晩餐会に相応しい国中から集められたご馳走が並べられ、その隣では選りすぐりの音楽家たちの生演奏が場の雰囲気を盛り上げている。
 それらを横目で一瞥しながら、蓮ははあと溜め息をこぼした。
どうも自分は、こう華やかな場所が苦手らしいと気づいたのはまだ幼い頃。
何度となく参加している社交場だが、つんと鼻につく香水の香りや愛想笑いと欲望に溢れるこの場所に、いつまで経っても慣れることなど出来そうにない。

「いかがですか?」

 ふんだんにレースのあしらわれた赤いドレスを身に纏った女性が、妖艶な笑顔でワインを差し出すのを片手だけで制しながら、蓮はすぐさまその場から離れた。
先程から何度も差し出されるワイングラスと小皿に盛られた料理の数々。
月森様、公爵殿、と。彼らは皆同じような笑みを浮かべ近づいてくる。
『笑顔』という固い鎧を身に纏い、取り入ろうと必死な形相を隠してはいるが蓮には全てわかってしまう。分かりたくなくても、分かってしまうのだった。

 開口一番、まず「貴方様のヴァイオリンはとても素晴らしい!」と褒め称え。
その後は聞いてもいない彼らの家柄の話をペラペラと始めるというのがいつもの、このような場で出会った貴族の行動パターンである。
もう。流石に。辛気くさいやら何やら言われようが溜め息の一つや二つ、こぼすくらい何だと言うのか。
社交場に参加した後はもう二度と行くものかと毎回思うのだけれど、しかし、これでも公爵家の息子という立場がある。
普段からあまり他人を寄せ付けるタイプではない自覚はあるが、このような場での付き合いが大切なものだということも良く理解しているのだ。
多少、いや多分に腑に落ちないけれども。
それを自制出来ぬ程、蓮はもう子供ではない。

けれど。
流石に。流石に。こうまで続くと相手をする気も失せてくる。
どこぞの令嬢なのだろう、派手に着飾った女性が無理矢理蓮の体に身を寄せて来た時には本気で引き剥がしそうになった。
あからさまな態度に辟易しつつも、冷静を装いながら彼女から身を離し逃げてきたばかりだというのに。

 もういっそこのまま帰ってしまおうか。
パッと浮かんだ考えは、我ながら良い案だと思われた。
体調不良だ何だと言えば、退出することも可能だろう。
あれこれ余計な詮索をしてくる者もいるだろうが、そこは何とか言いくるめてしまえば良いだけの話。
はあ、と。眉間に手を当て本日何度目かわからない溜め息をこぼしながら踵を返しかけた所で、蓮の胸に蘇る一人の少女の面影があった。

 この晩餐会の主宰である王の娘、香穂子。
一国の姫である彼女とは幼馴染みであり、彼女にそれ以上の特別な感情を抱いていることはとうに自覚している。
本来ならばあまり人目に触れることなくこの場から抜け出したいものだけれど、特別な感情を抜きにしても、主宰である彼女に退出することを伝えるのが最低限のマナーだろう。
そう結論付け、さっとやや乱れた感のある帯を直しつつ、特別賑わう一角へ足を進める。

多少よろめきながらも人混みをすり抜けた先、探していた少女はすんなりと蓮の視界に飛び込んで来た。
決して派手なドレスではないものの、一目で上質だと分かる薄生地に細やかな刺繍が施された、淡い空色のドレス。
ひらひらと裾が揺れる様は、まるで水面を踊る小鳥のように愛らしく、彼女のすらりと伸びた手足の美しさを更に際立たせていた。

 見知った少女の姿を視界に入れたことで安堵しつつ、無表情を貫いて来た顔の筋肉を多少柔らげる。
そのまま近づき、香穂子に声をかけようとしたその時。

「いや〜、しかしプリンセスは御美しくなられましたなあ!」

見るからに酔っぱらっているのだろう赤ら顔の紳士が、据わった瞳で香穂子の手を取り口づけている。

「またまた、御冗談を……」

薄い微笑を浮かべ答える香穂子も多少困惑しているようだった。
それに気づいているのかいないのか、呂律すら怪しいその紳士は馴れ馴れしく彼女の肩に腕を回す。
一国の姫に対し明らかに行き過ぎたその行動も、周りの参加者らも程よく酔いが回って寛容になっているのか、誰一人咎めようとはしない。
瞳を伏せ、あの……と言葉を濁す彼女を見ていられずに、蓮は思わず右手を伸ばした。

「失礼」

細腰に腕を回し引き寄せれば、香穂子が驚いたように目を見開く。
突然の横槍に何だ、と顔をしかめたその紳士も蓮の姿を認めた途端、これはこれは!公爵殿ではありませんか、と媚びた笑みを作った。

「プリンセスの顔が赤いように見えたのでね。酔ってしまわれたのかと思い、支えになろうと手を伸ばしたのでございます」

胡麻をするように手を捏ねながら、悪びれることなくふふふと紳士は笑う。
──本当にたちが悪い。
目の前の男に激しい嫌悪を覚えながらも、彼を鋭い瞳で一瞥するだけに止め蓮は香穂子に向き直る。

「では、どうでしょう姫。酔いを覚ますためにも、一度お部屋にもどられては?」
「……ええ、そうしようかしら」
「ではお手を」

頭を垂れ、すっと差し出した蓮の腕に重ねられる手。
流れるような仕草で彼女のエスコート役を勤めながら、ざわざわと未だ騒がしい大広間から颯爽と抜け出した。



 木製の重厚な扉を閉めれば、先程までの喧騒が嘘のように静まりかえり、ひんやりとした空気が室内の熱気に当てられた頬を冷ましてゆく。
いつの間にか詰めていた息をふぅ、と吐き出せば、隣の香穂子もまた緊張を解いたように肩の力をふわりと抜いた。

 パーティーが行われていたホールは城の隣に併設されており、短い通路を通ることで城に直接戻ることが出来る。
通路の両脇は庭となっており、様々な花やハーブが風に揺れていた。
思わず、すぅと胸に吸い込んだ新鮮な空気は、庭のハーブが放つ爽やかな香りを混ぜ、蓮の気分を多少和らげてくれる。

 同じく隣で一息ついていた香穂子が、くるりと長いドレスの裾を翻し蓮に向き直った。
「ありがとうね」
そう言って此方に微笑みかけた彼女は、もういつもの、幼馴染みの顔をした香穂子だった。
先程までの、凛と佇む『姫』としての風格は身を潜め、朗らかで無邪気な笑顔が顔を覗かせる。
自分だけに向けられるその無防備な笑顔に自然と月森の目も細められる。
けれど、すぐに香穂子の綺麗な笑顔は消え、その赤土色の瞳を曇らせた。

「でも、ごめんなさい。蓮までお部屋から退出することになってしまって……。まだパーティーは始まったばかりなのに」
「いや………」

しゅんと肩を落とした香穂子は、どうやら月森を巻き込んでしまったことに責任を感じているらしい。
別に月森自身パーティーに未練などないし、どちらにしても早々に帰るつもりだったから気にするな、とも主宰である彼女に言うのは憚られて。
さて、どうしようかと視線をさ迷わせた庭先。
月森はあるものを見つけて開きかけていた口を閉じた。

「……蓮?」
「君はここにいてくれ」

そう言い残し、蓮は一人明かりの届かない薄暗い庭先へ一歩踏み出す。
かさり、と葉が擦れる音がして、けれどそれもすぐに聞こえなくなった。
しんと、恐ろしい程静まり返る空間に香穂子一人が残される。
一人になった瞬間、先程まで気持ち良かった夜風が急激に温度を下げた。
ざわり、と何かが背中を駆け上がる。

「……どこなの…?蓮……?」

少しだけ、香穂子の声が震える。
目映い光に慣れた両目は、暗闇では全くと言っていいほど役に立たない。
「……ねぇ、蓮……?」
拳をぎゅっと握りしめながら、香穂子もまた暗闇に身を踊らせようとしたその時。
かさり、と近くで葉の鳴る音がして、香穂子は思わず身を縮こまらせた。

「すまない、驚かせてしまっただろうか」

耳に届く、清涼でやや硬質な声。
反射的に固く閉じてしまった瞼を慌てて開けば、そこには申し訳なさそうな顔をした蓮が立っていた。
その手には、一輪の薔薇の花。

「見事に咲いていたから……。」

そう言って、蓮は暗闇の中のある一点を見つめる。
その方向に目を凝らせば、ようやく暗順応した香穂子の瞳が、職人の手によって美しく手入れされた薔薇園を写し出した。

「……良い香り」
目の前に差し出された一輪の薔薇からは、なんとも香しい香りが届いて。
香穂子がうっとりと瞳を閉じるのを、優しい瞳で蓮は見ている。
「少しだけ、そのままで」
そう言って背を屈め顔を近付かせた蓮に香穂子の心拍数が急激に上昇していく。体の熱が一気に上がるようだった。
「……れ、れ、蓮?」
戸惑いを含んだ頼りない声にも、蓮は気にする素振りはなく。こんなところが鈍いのだ、と香穂子はいつも悔しくなる。
きっとドキドキしているのは自分だけなのだから。
そう香穂子が頬を染めている間にも、蓮の指が香穂子の髪を器用に耳にかけ、先程の薔薇の花を飾った。
蓮は近づいた時と同じ唐突さで香穂子から一歩離れると、満足げに目を細める。
「良く、似合っている」

何でもないことのように言う蓮に、香穂子は真っ赤になってしまった顔を上げることが出来ない。
もしかして、蓮の方こそ酔っているのではないかとも考えたけれど、思い返してみれば、蓮はときどき、本当にときどき何気なく、今のような爆弾発言をさらっと落とすことがある。
またそれが、本人に自覚がないぶん酷くたちが悪いのだけれど。

下を向いてしまった香穂子を心配したらしく、蓮が「どうかしたか?」と声をかける。
赤い顔を隠すように少しだけ睨み付けるような視線を送れば、蓮は訝しげに眉をひそめた。
ああもう。本当に。何もわかってないんだから。
じとりとした香穂子の視線に何なんだ、と憮然とした蓮の顔を見て。
何だか悔しくて、『ありがとう』とは言えなかった。
「何でもないですーっ」
そう言って、ぷんと子供じみた仕草で蓮から顔を逸らせば自らの頭から先程挿された薔薇の香りが香穂子の鼻腔をふわりと擽る。
甘い、甘い、大人の香りは、まるで今の自分の幼い態度を笑っているようで。

数秒考えて、何かに背を押されるように、香穂子はもう一度蓮に向き直った。
「……ほ、本当に似合ってる…?」
今度はしっかりと顔を上げて、正面から聞いてみる。
「俺は思ったことしか言わないが」
腕を組み、また憮然とした表情を浮かべる蓮は、その言葉と態度がどれほど甘く、優しいものであるのかをわかっていない。
その些細な一言で、どれだけ乙女心がときめき、震えるのかをわかっていない。

「ありがとう」と、香穂子が何とか絞り出した言葉は自分が思っていた以上に喜びに溢れ。
ああ、こんなにも彼に恋をしているのだと再認識させられる。
さわさわと庭先をそよいでゆく風も、もう頬の熱を冷ましてはくれなかった。







*
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変わらないもの

*王国パロ



それはふとした時に触れ合う指であったり、時たまに浮かぶ微笑であったり。
形こそ様々だけれど、どれも香穂子の心を捕らえて離さない。

蓮と香穂子はいわゆる世間一般でいう幼馴染みというものに該当する。だだ少し普通と違うのは、香穂子は一国の姫であり、蓮は公爵家の嫡男である、ということだけである。
そう、それだけなのに。


「…はぁ」
香穂子は今日何度目かの溜め息をついた。
広い自室に吸い込まれていく吐息を切なく思いながら、規格外に大きなベッドの上に身を沈める。
丁寧に整えられたふかふかのシーツに沈み込みながら、心も深く落ちていくようだ。


「…どうかなされたのですか?」

窓際から気遣わしげな声がかけられ、香穂子はガバリと身体を起こす。大きな窓を懸命に磨いていた冬海に香穂子は淡い微笑を浮かべ言う。

「…ごめんなさい。何でもないの」

一生懸命香穂子の身の回りの世話をしてくれている冬海に悪いと思い、香穂子はベッドから身を起こす。
動きにくいドレスの裾をつまみながら、冬海の側に歩み寄るとその隣に並んだ。

「ね、私もやってみていい?」
「だ、駄目です!香穂子様に、そっそんなことをさせるわけにはっ…!!」
「大丈夫よ。私、その辺のお姫様とは違うもの!」

自分でもよくわからない理屈を言いながら冬海の側にある布を手に取り掃除を始めれば、「…あ、香穂子様…!」と暫くオロオロしていた冬海だったが、止める気のない香穂子に諦めを覚えたのか、渋々自分の仕事を再開し始めた。

窓の外ではピピピと小鳥が囀ずり、室内にはキュッキュッと摩擦音が響く。
城内の誰かがヴァイオリンを奏でているのだろう、優しい音色が耳に届いて、香穂子は思わず手を止め聞き入った。
―蓮、じゃない、か。


「この音色…王崎さんでしょうか?」

同じように手を止め、耳を澄ましながら冬海が言う。

「うん。相変わらず温かな音色ね」

香穂子が笑って冬海も淡く微笑み返した。包み込まれるような王崎の音色に、香穂子はそっと口を開く。

「ねぇ、冬海ちゃんは『恋』をしたことある?」
「…え!?…こ、恋ですか?」
「うん、そう」
「…どうなのでしょう…私、そのようなことには疎くて……。も、申し訳ありません…」
「あ、ごめんね!!気にしないで!ねっ!」

申し訳なさそうに頭をもたげる冬海に、香穂子はぶんぶんと首を振り否定する。


「……私ね、今、恋をしているの」

突然の香穂子の告白に冬海が目を丸くする。

「そ、そうなのですか!?」
「うん。とっても素敵な人なのよ!」
「それは一度お会いしてみたいです!」

実は冬海は何度も会ったことがあるのだけれど、香穂子はあえて言わないことにした。
 いや、言えないのだ。
互いの家柄のこともあり、この恋心を公にすることは出来ない。
しかし、この胸に秘め続けた想いを誰かに打ち明けたいのも事実で。
香穂子は躊躇いながらも言葉を繋ぐ。


「……私は彼を異性として好きなのだけど、彼はきっと、私のことなんて妹程度にしか思っていないでしょうね」
「…香穂子さま……」

瞳を伏せた香穂子を、冬海が心配そうに見つめる。




ふと思い返せば、どんな時も蓮が好きだった。
恋の始まりも見えないほど、幼い頃から蓮しか見えていなかった。
それは近くに同じ年頃の男の子がいなかったからかもしれないけれど、でも蓮だったからこそここまで恋心を育んでこれたのだろう、と思う。
素敵なヴァイオリン、そしてそれ以上に魅力溢れる彼の人柄。



「…それでも………それでも香穂子さまは、その方のこと お好き、なのですよね?」

躊躇いがちに冬海が尋ね、香穂子は一瞬目を大きく見開く。
―そのとおり、だった。

「うん。そうね」
自然と頬が緩み笑みが浮かぶ。

冬海は大人しく少し抜けている所もあるが、その実とても聡い少女である。
彼女に話して良かった、と香穂子は思った。


「人の気持ちは変わるもの、というし。いつかあの人も、私のことを一人の異性として見てくれるといいのだけれど、ね」
「ええ!香穂子さまなら大丈夫です!わ、私、応援しています!!」

冬海が胸の前で両手を握り締め意気込むように身を乗り出す。
香穂子も同じように両手を握り締めると、冬海と二人微笑みあった。






『人の気持ちはいつか変わる』
それは希望であって、絶望でもある。
 自分のこの心も変わる時がくるのだろうか?
国のため。民のため、と蓮を諦めなければならない時が。

 いや、絶対に諦めない。
何の根拠もないけれど、この恋心は変わらないと信じたい。
一生、それこそ死ぬ直前まで。

香穂子は願う。
愛を成就出来ずとも、この心だけは守り続けたい、と。
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変わりゆくもの

*王国パロ



 大きな窓から、柔らかな日差しが降り注ぎ、蓮と香穂子を包み込む。
蓮が一曲弾き終わり弓を下ろすと、静寂が辺りを包み込んだ。
 いつもなら「ブラボー」だとか「流石ね蓮!」と、瞳を輝かせ拍手をくれる香穂子が何も言わず 平静を装ってヴァイオリンの手入れをしている蓮を、頬杖をつきじっと見つめてるものだから。

「…な、なんだろうか?」


 思わず漏れた声は、我ながら動揺が滲み出ていて情けない。
 しかし香穂子に蓮の動揺は少しも伝わらなかったらしく、うーん、と少し悩むような素振りを見せると、すぐにいつもの輝くような笑顔に戻り話し出した。

「あのね、ずっと思ってたんだけど」
「………?」
「蓮の音って、なんか、こう。不思議、だよね」
「……不思議、とは?」

 香穂子の言いたいことが今一つ分からず、蓮は訝しげに眉をひそめる。

「ほら、蓮はよくパーティーで演奏を頼まれるでしょう?」
「…まあ」
「いつも凄く上手だけど、今日みたいに二人だけの時に聞く音色は、何て言うか…すっごく素敵に聞こえるの!」


 不思議でしょ?と首を傾げながらも楽しげに話す香穂子から、蓮は思わず目を逸らした。
 自分でも気づかぬうちに、音色は言葉より雄弁に彼女への気持ちを歌っていたらしい。
 広いパーティーホールで貴婦人や名のある演奏家に聞かせるよりも、狭い室内で(といっても普通の部屋に比べれば十分広いのだが)まだ音楽の知識も乏しいたった一人の観客に聞かせるヴァイオリンの方が音色が弾んでいるなんて。
 自分のことながら、全く素直過ぎて困る。

 音楽というのは実はとてもわかりやすい。弾き手の感情次第で、同じ曲であっても全く異なるものになったりする。だからだろう、自分の気持ちはだだ漏れなのだ。
 蓮の音色はいつだって、どんな場所でも香穂子に向かっているのだから。


 今しがた一曲弾き終えたばかりのため余計気恥ずかしく、蓮は手で口を覆った。顔が赤くなっているのが自分でも分かる。その証拠に耳が妙に熱を持ち、熱い。

「蓮?どうしたの?」
「い、いや…」

―ああ、落ち着け。
 そう言い聞かせてみるものの、一度高ぶった熱はなかなか冷めそうにない。
 どうしたものか、と思案しながら香穂子を見れば、何もわかっていない様子の彼女がもどかしく。無意識の内にふいと顔を背ける。


「…君といる時間は特別だから仕方ないだろう」

 何かに突き動かされるようにポロリ、本音が転がり出て、蓮は慌てて口をつぐんだ。
 しかしもう遅い。

―自分は何を言っている?
羞恥と妙な高揚感のせいで意識がふわふわと落ち着かず、一瞬前に自分が何を口走ったかも曖昧だ。
ただただ、胸の鼓動だけが彼女への想いを叫ぶように鳴り響いている。

「…あ、いや…」
 今日の自分は一体どうしてしまったのだろうか。
先程から何度も口ごもる自分を情けなく思いながらも振り返れば。

「………………え…?」

 感情の揺れをそのまま表したような、か細い声と共に、香穂子が真っ赤な顔をして立っていて蓮もまた言葉を失った。



 彼女はいつまでも子供なのだ、と勝手に蓮は思っていた。そこが彼女の美徳であり、自分は変わらない彼女をもどかしく思いながらも、居心地の良さに安心しているのだ、と。
ましてや一国の姫として、周囲から沢山の愛をその身に受け生きてきた彼女には、『特別な人』だとか『恋愛』だとか、そういう曖昧な感情はまだ芽吹いていないに違いない、とか。
 今にして思えば、自分はどれだけ彼女のことを甘くみていたのか。いや、それは自分の密かな願望だったのかもしれない。

―変わりたくない、という幼い願い。
こうして二人で何気なく話して、過ごして。他愛ない話に微笑みを交わせるそんな時間を失いたくなかった。
 けれど。
当たり前に香穂子だって成長している。蓮が誰かを特別に想う感情を知ったように、香穂子だって成長しているのだ。
 身体以上にその心も。



 真っ赤な顔を隠すように香穂子が俯き、どこか気まずい空気が二人を包む。先にその空気を破ったのは、居たたまれなくなった蓮だった。

「……す、すまない」

一言何とか絞り出すと、手短かにあったヴァイオリンを掴み廊下へと続く扉を開く。

「…あ、うん…」

 扉を閉める直前、耳に届いた微かな声は酷く甘い響きを帯びていて。
 変わっていく予感を蓮は否応なく自覚せねばならなかった。
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日常風景

*王国パロ


小鳥たちの囀ずりを乗せた風が大きな窓から入り込み薄いカーテンを揺らす。
まだ幾分か柔らかな日射しが射し込み、朝の爽やかな陽気を伝えた。
そんな空気を壊すかのように、

「…つまんない」

先刻から側でぶつぶつと呟かれる文句は次第に大きくなる。
…ついに。


「ねぇ蓮!お買い物に行きましょう!」

我慢の限界か、さも名案と言わんばかりに譜読みをしていた月森の背後から正面に回り込んだ香穂子が、楽譜の横から楽しそうに顔を覗かせる。


「…俺が今、何をしているのか分からないのか?」

こんなことには慣れたもので、やれやれと香穂子に目配せして聞けば「だって暇なんだもん」と一言。

まあ香穂子は暇だろうが、自分は全くもってして暇ではない。
けれどそんなこと、仮にも一国の姫の前で口が裂けても言えるわけが無く。
渋々楽譜を脇に置けば嬉々とした声と共に両手を引かれ、柔らかな座り心地の上品な椅子から立ち上がらさせられる。


「ふふふ。蓮とお出掛けなんて久し振り!」

嫌味の一つでも言ってやろうかと思ったが、無邪気な笑顔を浮かべ言う香穂子に野暮なことを言うのは憚られて。




そんな笑顔は卑怯だ、と月森は思う。
毎度のことなのだけれど、そんな無防備な笑みを見せられれば香穂子の提案に乗らざるを得ない。

彼女は自分が『姫』だという認識が低すぎるのだ。
だからこそあまりに無防備で、一人で街へ出掛けに行ったりする。
この国は治安がそこまで悪くは無いため、城の者も香穂子の癖になったような脱走を酷く咎めたりはしないのがまたそれに拍車をかけたようで。




「…まさかその格好で行くつもりか?」

呆れたように問いながら、側に掛け置いた自らの上着を手に取り羽織る。
漆黒の上着はそれなりの値打ち物ではあるが、特に目を引く色彩ではない為変に目立ったりはしないだろう。


「今から着替えてくるつもりだけど?」


流石に華やかな衣装で街へ降りるつもりはないらしい。


「では、先に下へ降りているから」

一言告げて背を向け扉へ向かう月森。

香穂子のことだ。
おおよそ市場にでも行きたいのだろう。
彼女は昔から活気ある場所を好んでいたから。


「蓮っ!」

「…何だ?」

ふいに呼び掛けられ振り返れば、満面の笑顔の彼女。


「大好きっ!!」



瞬間、思考が停止した。


瞳は瞬きを繰り返し、けれど一つ自分に言い聞かせるようにわざとらしく溜め息をこぼす。


「…早く着替えろ」


内面の動揺がばれてしまわぬよう素っ気なく言い捨てると足早に部屋を後にする。
長い廊下を歩いている内に先程の香穂子の言葉がじんわりと心に染み込んでいく、それと同時に込み上げるとてつもない高揚感。

心臓がけたたましく鳴り始め、あまりの喜びに目眩さえする。
廊下を行き交う城のメイドの目も気にせず、月森は近くの壁に背を預けた。



「…まったく」

呟く声は自分でも分かる程弱々しく情けない。

彼女のことだから、先刻の言葉も大して意味は無いのだろう。
彼女の言う『好き』は親兄弟に言っているようなものと同じはずだから。



月森は一つ深呼吸し落ち着きを取り戻すと、城の門の前へ急いだ。
遅れればまた文句を言われることは目に見えている。



見上げた空はどこまでも晴れ渡る蒼穹。
今の月森の心を写したように。
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華麗なるコルダ家の人々(登校編)



麗らかな早朝。
通学路には同じ制服を着た人間が溢れかえっている。
まあ登校時間だから込み入るのは仕方がないのだか、その中でも妙に目立つ一団が一つ。

そう

言わずもがな俺の兄弟達である。



+++++++++++



せめて登校中だけでも落ち着いて過ごしたいと渇望している俺を嘲笑うかのように、俺達の周りには餌に群がる蟻のような見事な人だかりが形成されていた。

「葵くーん!」
「きゃー!こっち向いて〜」

その集団の目的は、俺の隣で夏風より爽やかな笑顔を浮かべどこぞのアイドルのように手を降り返している葵である。
よくやるな、お前も。

「呼ばれてるんだから答えないと駄目じゃない?」

…そういう問題か?

「ほら、梁太郎兄さんも手を降ってあげなよ。スマイルスマイル!」

お前は俺がそんな芸当、出来ると思ってるのか?

「うーん…無理だろうね」

そう言った葵は、今日一番のスマイルを浮かべていた。…腹黒め。




何一ついつもと変わらない景色をダラダラと歩いているうちにそろそろ学校へ着きそうだ。
葵の隣を歩いていることで必然的に俺も熱心な葵のファンに囲まれているのだが、人だかりの隙間から見える後方に蓮と香穂子がゆっくりと此方に向かって来ているのが見える。
これもいつものこと。


そんなに嫌なら一人で来ればいいじゃないかと思うだろうが…甘いな。

そんなこと当の昔に試したさ。
その後、葵がファンの女子達に「兄さんとケンカしちゃったんだ…」とかなんとか、持ち前の演技力を使って信じ込ませやがった。その後どうなったか…分かるだろう?
休み時間の度に女子数人が「葵くんのこと許してあげて下さい!!」って頭下げにきやがる。
あれはもうこりごりだ。


葵と来る過程で落ち着くことができないなら、蓮と香穂子と一緒に来ればいいとも思うだろうが、それは一番危険なパターンだ。
登校中はまだいい。
だが学校に近づくと。

アレが始まっちまう。


「…蓮、行っちゃうの?」
「香穂子…許してくれ」

ほーらきた。

「寂しいよ、蓮」
「俺もとても寂しい」
「…だったら!」
「だが、俺も君も行かねばならないだろう?」


…付き合ってられねぇ。

毎度毎度飽きずに繰り返すこいつらを俺と葵でどーにか離して教室まで連れて行くんだが、それもまた一苦労。



こうして俺は毎日、授業が始まる前から机に突っ伏している。


一日はこれから始まるってのに。
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