「土方さん、入ってもよろしいでしょうか?」
「おう、入れ」
襖越しに遠慮がちにかけた千鶴の声は、それでも土方にはしっかりと聞こえたらしく、背筋がぴんと伸びるようなその声音に知らず知らず千鶴の緊張も高まる。
「失礼します」
土方の仕事の邪魔にならないよう、そっと襖を開き室内へ歩を進める。
「お茶をお持ちいたしました」
一声かけて、できるだけ音を立てぬよう慎重に土方の文机に近付き湯呑みを置くと、また数歩後退する、という単純な作業。
しかしこれが相当な神経を使う。今日は今のところ上手くやれているようだ、と千鶴は一人詰めていた息を吐き出した。
土方にお茶を運ぶこの仕事は今や千鶴の日課となりつつあった。
最初のうちこそ、手が震え何度も入れ直すという失態を晒したけれど、今や落ち着いて一通りの作業をこなせる程には慣れてきている。
「おお、すまねぇな」
そう言って早速湯呑みに手を伸ばした土方だったけれど、湯呑みに手が触れるか触れないかの直前で、その動きがぴたりと止まった。
何か至らないことでもあっただろうか、と千鶴はぴくりと肩を震わせるが、予想に反して此方を振り返った土方の表情はとても穏やかで、訳もわからず首をこてんと傾げる。
「お前、甘いもんは好きか?」
突然の問いに目を白黒とさせながらも「はい?好きですけど……」と答えれば、土方は書類が所狭しと並べられた文机の一角に手を伸ばしそれを手に取ると「ほら、手ぇ出せ」と千鶴を促す。
「え、あ、はい!」
慌てて両手を伸ばせば、掌にぽんと乗せられる僅かな重み。
ほんのり香る甘い香り、滑らかな肌触りと確かな弾力。これは……
「お饅頭…ですか?」
それも見事な山吹色をしたよもぎ饅頭だ。顔を近づければ、甘い匂いに混じってよもぎの優しい香りがほんのりと漂う。
「さっき島田に貰ったんだが、今食う気分でもねぇしな。女子供は甘いもんが好きなんだろう?」
「えっ、でも土方さんが戴いたものですし……」
「ったく、餓鬼が一丁前に遠慮なんかしてんじゃねぇよ。ほら、あれだ、茶の礼ってことで受けとっとけ」
投げやりな口調ではあるけれど、その瞳が実は優しい色をしていることを千鶴は知っている。
初めこそ、そのぞんざいな言葉遣いに戸惑うことも多かったけれど、それは土方なりの優しさであり照れ隠しのようなものだと最近になって分かるようになった。
鬼の副長と恐れられている土方は確かに厳しい人ではあるけれど、その芯はとても真っ直ぐで強い人だ。
いつだって怒っている訳ではないし、今日のように度々千鶴を気にかけてくれる。彼の副長としての立場がそうさせるのだとわかってはいるが、その優しさがただ素直に嬉しかった。
「…でも………」
だが、やはりここで素直に受けとるのは気が引ける。
土方がこうして差し出してくれているのだから、素直に受け取ったほうが良いというのは千鶴にも分かるけれど、土方のためにとわざわざ甘味屋まで足を運んだのだろう島田のことを思うと申し訳ない。
手に饅頭を載せたまま、おろおろと頭を悩ませる千鶴を見て、土方はやれやれと苦笑した。
千鶴が土方を理解し始めたように、土方もまたこの少女の性格を把握しつつある。
お人好しで素直なこの少女のことだ。島田の好意を無下にしてしまうことを懸念しているのだろう。
「ったく……」
土方はくっと笑いながら、千鶴の掌の上の饅頭に手を伸ばす。それを千鶴の前で半分に割り、小さい方をひょいと自らの口の中へ投げ入れた。
途端、口内に広がる甘さとよもぎの香りを茶で流し込めば、凝り固まっていた体が多少解れるようであった。
ふぅ、と一息ついた後、ぽかんと成り行きを見守っていた千鶴に残り半分となった饅頭を差し出す。
「ほら、これで文句はねぇだろ?早くその口開けやがれ」
笑いながらそう言えば、千鶴は一瞬にして白い頬を鮮やかに染め上げる。
「え、あ、あのっそれは……」
当初は冗談のつもりだったのだけれど、千鶴の少女らしい反応に土方の笑みも深まる。
いつも千鶴をからかい遊ぶ総司に頭を悩ませてきたけれど、今日ならば総司がどんな気持ちで千鶴をからかい倒すのかが分かる気がした。
「あ?俺の手からじゃ食えねぇってか?」
意地悪くそう言えば、案の定千鶴は「そんなことはありません!」とふるふる首を横に振る。
そしておずおずと土方に近づくと、ぱくりと小さな口で一口饅頭を頬張った。
「…美味しい!」
先程までの恥じらう姿が嘘のような、幼さの残る笑み。
ああ、まだ餓鬼だな、と僅かに微笑んで、気が付けば「……そりゃあ良かったな」と小さな頭をポンポンと撫でていた。
高い位置で結ばれた髪がまるで尻尾のようにゆらゆら揺れる。
殺伐としたこの屯所の中で、千鶴は隊士たちの唯一の癒しであり日常の象徴だ。
それは土方にとっても例外ではなく、頭を悩ませる事柄も多いものの今更千鶴を殺すことが出来るかと問われれば正直難しい。
その事実がまた、土方の頭痛の種でもあるのだけれど。
「……全く困ったもんだな」
小さな頭をぐりぐりと撫でながら、誰に聞かせるでもなく呟いた言葉に。
「何がですか?」
どこか楽しそうに返って来た聞き覚えのある声に、土方はぎょっと振り返る。
閉じたはずの襖はいつの間にか開いており、その隙間からにやにやと猫のような顔をした沖田が此方を見て笑っている。
「総司……てめぇそんなところで何してやがる?」
こいつがこんな顔をして笑っている時は大抵録なことがない。
早急に捕まえようと立ち上がりかけた土方よりも先に、にやりと まるで悪戯を思い付いた子供のような 笑みを浮かべた沖田がくるりと踵を返す。
そして。
「うわーー!土方さんが千鶴ちゃんを部屋に連れ込んで何かしてるー」
そうあからさまにわざとらしく、大きな声で言いふらしながら広間に向かい歩いて行く後ろ姿に土方が吼える。
「おい総司!てめぇ人の部屋覗いてんじゃねぇっ!!くだらんこと抜かす暇あるなら稽古でもしてこいっ!!!」
ったくあいつはこれだから手に負えねぇ…と呟きながら降り返る土方の瞳に映る千鶴の頬は、淡く染まっていて。
「千鶴…?」
声をかければあからさまに慌てた様子で千鶴が立ち上がる。
「あ、わっ、私お洗濯してきます!」
言うが早いか、脱兎のごとく部屋を飛び出していった千鶴に、土方は一瞬呆然とした後、苦笑をこぼす。
どうやら総司の言葉を聞いて、変に意識されたらしい。
「やっぱりまだまだ餓鬼だな」
そう一言呟いて肩を大きく回すと、土方は文机に向かい中断していた仕事に取りかかり始めた。
随分と長く休憩したから、作業も大分はかどるだろう。
また後で千鶴に茶を頼むかと思案しながら、土方は先程よりも柔らかな表情でさらさらと筆を走らせた。