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部内活動「二月読書会」

どうも、こんにちは。副部長の中石です。
2012年二月に関学文芸部内にて行われた「二月読書会」活動の報告になります。

今回課題図書として選出されたのはスティーブン・キング氏の中篇集『スタンド・バイ・ミー 恐怖の四季秋冬編』(新潮文庫)より表題作『スタンド・バイ・ミー』でした。作者自身の幼少期の体験や回想などが主人公へ重ね合わされる部分もある「半自伝的小説」とも言える内容であり、1960年代のアメリカの片田舎を舞台に、少年たちの幼い冒険を描いた作品です。映像化された形でも有名な作品であり、そちらで触れていた部員も多かったのではないでしょうか。

実はこの読書会が開催される当日、午前中に有志参加にて映画版スタンド・バイ・ミーの上映会も敢行いたしました。映画と小説、それぞれを比較検討しながら作品論を展開する一助になったものと思います。

さて、肝心の読書会ですが、初読後の感想では「昔読んだが今になって理解できた部分が大きい」「暗くて寂しい、独特の言い回しが多く共感できない」といった意見も見られながら、「自分の幼少期にもこういう心理や体験はあり共感した」と答える部員もいたり、「昔を振り返る今、という作品をさらに25年後の現代で読むこと」について、あるいは「少年達は仲良しグループに見えても、それぞれの距離感が微妙に違う」ことに言及する部員もおりました。また、これは少年達の関係のみに留まらず「親子間の関係をクローズアップして見ていく事も出来る」との視点も提示されました。

議論を進める上で最初に論点になったのは「共感できた人と出来なかった人の温度差」についてであり、これに関しては各々の幼少時の体験や性別に係る部分も見受けられました。が、ここで性別、というものに着目する読み方も提示されました。

それは作中作での主人公の渾名であったり、1960年代の反体制的流行などの背景なども考慮した上で、「女性に優位ではない」物語世界が構築されているのではとの意見があった為です。それは101ページのチコの作中作に対する自身の評価「女性に対する姿勢は―」に見られる事でもありますし、少年期の主人公達にとって「女が居る世界を想定していない」事や、馬鹿にする時に蔑称として「女」が使われる事なども主因であるのかもしれません。

ただ、男女間以外でも共感の差は見られ、そこでは「下品な言葉遣い」や「ノリ」がその原因として挙げられる事もありました。前者に関しては低学年ほどの年端の子供達が下品な単語で盛り上がりやすいというのもありますが、このどちらにも共通する事として見られるのは「無邪気さ」であるとの意見も出ました。
作品中の主人公達に通して言える事は、皆には勢いとノリの良さはあるが、それだけが先行しているから汽車に追いかけられ、森には入り、ヒルにも吸われる。そもそもノリがなければ死体を見に行こうと思い難いとも言われました。

この作品全体から「諦観」が感じ取れるとの意見も出ていましたが、それもまたこの話題に結びつけることが出来ると思われます。主人公の少年達には「先のことに囚われきっていない無邪気さ」が溢れていた事に対して、それが書かれた視点が(彼らの未来を知っている)大人になってからであるという点が、それを後押ししているようでした。

ここで作中作についても触れられましたが、そのひとつではパイ食い大会を機会に復讐を遂げる少年の話が登場します。彼のピークはその会場で復讐を成すその瞬間であったわけですが、これを聞いていた主人公の仲間から続きを迫られ、無理にオチを付けるといった場面がありました。

この「スタンド・バイ・ミー」自体を見てもこれに似た部分があるとの感想もありました。物語の終盤、当時旅をした友人の殆どとは疎遠になるまでの過程が語られ、やがて皆が死んでいくわけですが、物語を綺麗にするのであれば他の方法は取れた筈でした。にも関わらずここに行数を割いていることに、これを語る主人公ゴーディの中にも、仲間の離別や死について思うことがあったのかも知れませんね。
やはりここで重要になってくるのは作者から見た幼少期の無邪気さとその揺れ動きではないか、とのことでした。

実際にチコの作中作をカレッジ時代に発表したと語るゴーディが102ページで発し、さらに後に318ページでも同じ言葉で「輝きを失っていく過程」というフレーズが登場します。ここにもまた、幼少時代の「無邪気さ」を手放す諦観が見られています。
同じく、作中で何度も繰り返される言葉に、「何にもまして重要だというものごとは、何にもまして口に出して言いにくいものだ」というものがあります。それは主人公が過去の自分を思い返し、口では伝えきれない時代や雰囲気、自分の想いなどをそのまま取り出して言う事が出来ないもどかしさの様なニュアンスも見られることですが、ここで語られる「重要なこと」というのが、彼にとっての幼少時代での体験であったり思いであったりするのではないでしょうか。

作者が作品中で一番美しい光景として取り上げているのが「早朝の雌鹿との出会い」ですが、作者自身が認めているようにこれは「第三者からすると取るに足らないこと」であり、ひいてはこの物語自体もそういう性質を持っている様にも受け取れますが、その瞬間を伝えきれないなりにも何かの形で共感してもらいたいという意図があるのかも、といった感想も飛び出しました。

また、子供から大人に、という物語の中で、もうひとつ違う側面を読み解く事ができるとの意見もありました。それが、物語の最後である349ページにおいて、当時と変わってしまった現在の街の要素として語られる「上流のトレッスルはなくなったが、川はまだ流れている。そしてわたしもまた、そうだ」という、このフレーズです。

この「上流のトレッスル」というのは、かつて主人公が旅をする際に通った道であり、これに沿っていけば大丈夫とされていたものでした。それが今現在では無くなったと語られるのは、文字通り彼らにとって、「幼少期と同じような安易なレールがもう存在しない」事を示している傍ら、「川はまだ流れている(=人生自体はまだ続いている)」――「そしてわたしもまた、そうだ」と語ることにより、主人公がこれからも自分自身なりの道を生き続けていくことを示唆する終わり方になっています。彼は輝きを失いながらも、それを肯定して前へ進もうとしている。これがこの作品の真に意図するところではないか、という意見でした。

このあたりで、読書会を通しての大まかな議論は以上になりました。
読書会の終盤では、少年達の間でやたら影が薄く、作者としても扱いがぞんざいであるがどこか憎めない少年バーンについての言及がすさまじくなり、その存在意義をネタとして語らい合う時間もありましたが、それを省いたとしてもそれぞれの個性、感性が作品をより深める良い読書会になったと思います。

さて、次回に開催される読書会は、新入生を交えた形で行われる事になると思われます。
もし来年度に入学される方で、文芸部に興味を持たれている方は、是非とも4月に新学生会館3Fにある文芸部室のほうまで足をお運びください。
もちろん読書量や読書経験などは求められません。こういった読書会などの活動が任意参加で行われるので、今まで本にあまり触れて来なかった方などでも広く浅く小説について触れられるようになっております。気が付けばお気に入りの作品や作者を発見している、といった事もよくあります。
次回も皆様のご参加をお待ちしております。

それでは、長文失礼致しました。部内活動報告でした。


新聞原稿(白い雲/ヨア)

新聞原稿(ケータイババァ/鈴木 小川)

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