部屋に置いた小物や本、家の中に入り込む四季などは、わりと身近にある普遍のものだ。

 散歩していると毎度違うものに出くわすし、外は無限のフィルムが繰り返されることもなく流れ続けているから、見逃した景色は戻らない。外の活気を吸い込むと時間の波に乗れるから体に良い気がする。健康食品みたいな言い方をするけれど、外気は体に良い。活気を取り入れるということは消耗することでもある。だから私は普遍である閉ざされた部屋の中が大好きだ。
 部屋の窓からは田んぼが見える。奥に山脈。道路は一本だけ走っていて、田舎の電車の本数よりは多い頻度で車が走る。たまに車の音が聞こえる。鳥が風を切る音が聞こえたとしたらこんな音だろうというくらい伸びやかに聞こえる。農耕機械が唸る。遠くから電車の音がする。稀に人が歩く。私の窓には人の気配が映らない。窓は広大な田んぼの風景であっても、動物園のように安全にしてくれる。檻の向こう、一枚隔てた外は遠すぎるから、見ていて疲れるほどでもなく、コンパクトで愛しい。
 部屋に埃が積もる。掃除しなさいよと言う前に、安心する心を許して欲しい。誰も触らない場所。
 変わらない本棚の本が良い。ある意味部屋は時間が止まっているのだ。たまに追加する本については、これらは予め本棚にあったはずの物を迎え入れただけに過ぎないから、変化の内には入らない。気に入っているかどうか、という話だろう。予言の書が大好きな世紀末を生きた我々は、時々こんな言い回しをしてもすんなりと受け入れられるはずだ。そんなことないって? うん。明日世界は滅ぶだろう。挨拶のように予言される。

 たとえ終わりが来たとしても、この部屋は普遍である。