「日向ッ!!」
白で統一された部屋に、男の声が響く。
消毒薬の匂いが鼻に付くこの部屋では、一人の青年が横になっていた。
青年はその声にも反応することは無く、ただ眠り続けている。
「静かにして、うるさいよ」
男の行動を咎める様に言ったのは、同じ部屋に居た別の男だ。長身で色素の薄い短い髪が揺れて、顔付きは端正。しかし視線だけが鋭く、入ってきた男を射抜くように見つめている。
「…月島、日向は?」
その言葉に振り向き、はあ…と小さく息を整えた男は、自分を睨むように見つめる男に臆することなく問う。その視線もどこか鋭いのを、男…月島は感じながら、しかしそれを気に風に見せず小さく息を吐く。そして睨んでいた視線を、今度は眠る青年に向けた。
「大丈夫だよ、命には別状は無いって。まあ、無駄に頑丈だからね」
何たって昔から顔面にボール食らうのが通常運転みたいなもんだったもの。この子は―…。
そう頭の中で呟きながらも口には出さず、月島は眠る青年の額に指を伸ばす。
そして額に付いていた髪を払い除けると、さらりと柔らかい髪は抵抗無く額から離れた。
「だからって、頭だぞ!?」
そんな行動が、どこか気に食わなかったのか。男は声を荒げて月島に近付いた。しかし月島は動じず、横目で男を見るばかりだ。
「確かに。頭を打ってるからこそ、暫く安静は必要だけどね」
君はもう少し静かにしたら?と、否める様に言えば。男はグッと、何かに耐えるように言葉を詰まらせた。
「それより君はどうしたの?影山くん」
「え?」
この時初めて、月島は入ってきた男…影山の名を呼んだ。しかしそれは皮肉たっぷりのもので。問われた影山は、いったい何かと首を捻る。
「君今日さ、フィアンセと式場の下見だったでショ?」
そう今度は先程より強く問えば。影山は一瞬動きを止めて…しかし直ぐに視線を月島からズラして口を開いた。
「そりゃ、元チームメイトが怪我したとか聞けば普通駆けつけっだろ…」
「ふーん」
少し言いにくそうにしている影山に、月島は興味が無さそうに返事を返す。実際本当に興味が無かったのか、それとも想定内の答えが返ってきてつまらないのだろうか。
それは分からないが、現に今、月島の視線はやはり刺すようにキツい。
影山飛雄は、高校卒業後実業団のバレーチームに入った。
大学に行きながらの、バレーに高校からの仲間達は応援していた。勿論、大学で出来た仲間も。その内、大学で兄が影山と同じ実業団でバレーをしているという女子生徒に出会う。
その兄は、影山にも良くしてくれた人だった。
そこから二人は付き合うようになり、1年半の交際期間を経て影山は今年のその女性にプロポーズしたのだった。
回りからは電撃だの、早すぎる結婚だの言われたが影山自身プロ選手の寿命は短いことを知っていたし、はたまた何かに追われていたことも事実だった。その何か…は分からないが、ゆっくりしていた為に取り残しそうになっている気がして仕方なかったのだ。だから、早く結婚という事実が欲しかった。
そうして得たフィアンセに、今が幸せだと悟った。だだ心に小さなシコリを残したまま、それに蓋をして。
しかしそれを知っていたのは、確かそこに眠る青年だけだったハズなのに…そう思っていれば目の前で月島は自嘲気味に笑った。
「何で僕が知ってるのかって、顔だね。だって聞いたもの。事故に合う前の彼…日向に」
そう告げる声は、酷く冷たくて。影山はひゅっと喉を鳴らした。
出会った時からいけ好かないヤツだったが、今日は一段とそれが強い。いや、忌み嫌っているかのようだ。
しかし理由は分からない。ただ相手からは、怒りにも似た何かを投げつけられているみたいに感じる。
そんな時、ベッドの方から小さな呻き声が聞こえて。二人は同時にベッドへと視線を動かした。
すると今まで眠っていた青年が、うっすら目を開けたところだった。
「日向…」
「大丈夫か?日向!」
ベッドへ近付く二人に、日向はゆっくり目を見開くと…やがて辺りを見回すように視線を動かした。そして、何度かぱちぱちと瞬きすれば。青年…日向は小さく首を捻った。
「………お前、誰?」
そういう視線の先には、影山の姿。それに影山は愕然とした表情を浮かべた。
「ひな、た?」
「えっと、ここ…何処?って、おれ何で此処にいるんだっけ?」
視線をまた少しさ迷わせた後、訳が分からないと言った日向に影山が掴み掛かろうとする。
しかし、それをすぐ制したのは月島だった。
月島は、日向は怪我人だから今日はもう帰って?と伝える。
それに何か言おうとした影山だったが、月島のこの状況で君は何を言うつもりなの?刷り込みでもする気?と鬼気迫る表情で言われてしまえば。影山も引き下がるしか無かった。
「…また、来るから」
そう言って部屋を出て行く影山を見ながら、月島も日向も小さくて息を吐いた。
しかしそんな沈黙はほんの何十秒かで終わった。
何故なら月島が、日向に詰め寄って問うたからだ。
「…ねぇ、君。何でそんな嘘吐くの?」
「なにを…」
不意打ちのような質問をしてくる月島に、日向は驚いた顔を見せた。
そして、僅かな沈黙。
それが月島の言葉を肯定しているとも知らずに日向は必死に言葉を探している。
「忘れてる…なんて、嘘でショ?」
それよりも先に、ゆっくりと静かに言い放つ月島。そんな彼に日向は今度は表情まで凍てついた。
そして何とか瞬きをするとまた少し視線をさ迷わし、それから月島と視線を合わせて小さく呟く様に言う。
「意味、わからねぇよ、何言ってんだ…」
「それはこっちの台詞。本当に何なの?君が嘘を吐くとき、一度視線をさ迷うの自覚無い?しかもそれに加えて影山の時だと、絶対に一度指輪を触ってる。僕が知らなかったとでも思った?」
そう言われて、日向はびくりと肩を揺らした。そして何故…と言わんばかりに瞳を潤ませて月島を見つめる。
その瞳は大きく開け放たれていて、目が落ちそうだな…なんて月島は変な心配が胸に過ぎる。勿論、口には出さないが。
「分かるよそんなの、いつも見てたらね。そして、今。視線をさ迷わせ、尚且つ影山の前で指輪をなぞりながら誰だと言い放った。記憶がある時と同じ動作で。それって、どう言うことかな?確か君は、記憶が無いはずだよね?」
「………――ッッ!」
そう言われて、日向の表情は色を無くした。そして瞬きすら出来なくなった瞳から一筋の涙が顎まで伝い流れる。
そして、顔をくしゃりと歪めると日向はそっと顔を隠すように伏せてしまった。
「……もう、忘れたいんだ」
その言葉は酷く小さくて、弱々しいものだったが。月島の耳にはちゃんと届いている。
「俺ばっかりが好きで、辛い」
痛々しい告白に、日向の表情も歪められているのだろう。見えない顔を想像して、月島はギュッと拳をつくり握り締めた。
もう聞きたくないと言わんばかりの月島の表情がそこにあったが、それでも日向の言葉は止まらない。いや、月島の顔を見ていないのだから当たり前なのだけど。
「思い出して欲しかったし、また好きになって欲しかったけど」
呟く懺悔のような言葉。
それは嘗て、二人の関係が恋人だったことを表していた。
そう二人は以前…高校の時、人目を憚るように恋をしていた。
男同士の恋がどんなに世間から冷たく、その上何も生み出さない非生産的なものであっても二人は愛し合ったのだ。
しかし三年の半ば、事故が起きた。影山が階段から落とされるという事故が。
犯人は直ぐに分かった。彼はただ片想いしていた彼女が影山に恋をしている…と言うだけで影山を階段から突き落としたのだ。
結局大事には至らなかったものの、影山は高校時の大半の記憶が抜け落ちていた。その中には日向も含まれていて、勉強や部活の練習は大打撃を食らっていた。しかしバレーに関してだけは身体が覚えていたらしく、技術だけは問題が無かったのだ。信頼関係を戻すのは大変だった。正確には戻す訳じゃなく再構築だ。その為インターハイは酷い有り様で。春高は何とか形になったが…やはりギクシャクが取れず結果も思わしく無かった。
やがて、引退し二人は疎遠になった。影山は記憶を失う前から推薦が決まっていたのもあり、そのまま進んだが。日向は…進路を変えてバレーの道を捨てたのだ。
それから日向のバレーは、大学で遊び程度の事しかしなかった。誰に説得されようが、決してバレーをしない日向。
…それを一番気にしていたのが、月島だった。
「一度失ったら、臆病になっちまってさ」
その理由が、日向の口からため息混じりで明かされる。
影山は女性を選んだ。日向は繋がりから背を向けた。
それが意味する事は、この先の決別。しかし心は置き去りのまま。
きっとバレーをすれば、影山を思い出すのが辛いのだろう。影山とはたまに連絡を取り合うぐらいの関係には修復されてたが、日向自身それより深くは入れさせないようにしていた面が見えた。
それは失った代償か、それとも傷心した心を守るためか。月島にはわからない。
ただそれでも、影山を求める日向がいるのは分かっていた。
「そうこうしてたら…こんな事になっちまって」
そう言って撫でた薬指のソレ。鈍い銀色が存在をそっと主張するように収まっている。それは決して高く無いものだが、今影山が身に着けているものより価値があると、月島は思った。
…月島は一度だけ見たことがある。
同じデザインの指輪を、影山もしていた事を。
普段はカバンの奥の小さなポケット似入れていて、帰るときだけ身に着けていたそれは。今現在どうしているのか。
…そこまで思い出して、考えるのは止めた。今それを考えたって仕方ないのだ。
だって現に、幸せだった象徴はもう悲しみしか生み出さないガラクタとなり果てているのだから。
だから、もう、不毛な願いは止めろと言いたい。
「でももう、それは望めないから…」
滴る涙と共に零れ落ちた言葉は、現状を嘆く声。足掻き疲れた彼は、幼子の様に身体を縮こませて苦しみが去るのを待っている。
だって、相手が…しかも女性が傍にいると言うことは。自分には勝ち目がないと言うことだと。日向は、悟っている。
影山が受け入れたのだ、自分にはその資格が無かっただけ。
だから、きっと記憶を失わなくてもこの結果は訪れたかも知れない…と日向は強く思った。
いや思わなければ、心が死んでしまいそうだったから。
だからこそ、呪文の様に体中染み込ませて。相手を嫌うことなく、笑える自分を作った。
そう、作ったのだ。
だからこその、歪みが今になって現れた。切なさと悲しみを含んで。
少し間を置いた日向は、小さく呟く。
「それなら、このままいっそのこと。朽ち果てて消えてしまいたい」
そう零した日向は、幾筋もの涙をこぼしながら月島を見上げ悲しく微笑んだ。
それが何となく、月島には美しい花のように映る。
(ああ、なんで…)
そう胸の内に呟いたのは、月島かそれとも日向か。
ただ、思うことは同じ。
愛されない花には、枯らされゆく痛みだけが増えるのだという事実だけだ。
これから先も、ずっと。
…―ねぇ、影山。
おれ、ね。
その辺の名も知らぬ花となって、そのまま朽ち果て、やがて地に帰れるのなら…。
それでいいと思うんだ。
だっておれの気持ちはもう、名も無き花と変わらないから。
【ならば忘れた花でいよう】
記憶を失ったフリをお前は見抜けない。
何故ならお前もおれの記憶など持っていないのだから。