目が覚めたら、知らない天井が見えた。
何があったんだっけ?と不思議に思いながらも、ぼーっと天井を見続けてみる。
何かを思いだそうとするが、脳内ががぼやっとして霞掛かっている感じがした。
「ん…ここは…?」
「目が覚めたか?この、バカもんが!」
「ぎゃあ!」
パシッと額に痛みが走って、声の先に視界を動かせば。
「じ、じいちゃん…」
ぐわっと目の前に現れたのは、俺の育ての親…桑島慈悟郎…じいちゃんだった。
近付き過ぎた顔は一瞬焦点がブレたが、スッと体を引いてくれたお陰で顔が見えるようになる。
まったく…じいちゃんの顔のドアップは、寝起きの心臓に悪いからやめて欲しい。しかも額まで叩かれて、痛すぎだ。
「全く、お前は。あんなに日が暮れる前に帰ってこいと、言っておったじゃろうが!」
「ごめんってば。でもメール入れたじゃん」
「遅くなってからメールしても遅いわ!!!」
「痛い!理不尽!」
再び叩かれて、目から涙が出る。確かに約束破ったのは悪かったけど、不可抗力じゃんか!
「まったく、御守りも忘れおって…」
そう言われて自分の胸元を探ると、確かにいつも首から下げていた御守り袋が無かった。
じいちゃんに会って暫くしてから貰った御守り。
片身離さず身に付けているのは、じいちゃんに言われた…と言うのもあるけど。現に怖い思いをしなくなったからだ。
昔は怖いものが来たり、遭遇していたりして外を歩くのも怖かった事がある。多分殆どが自分の空想とか気のせいだと思うのだけれど。
そこで、ふと思い出した。
そう言えばさっき、怖い思いをしたな、と。
だけどその記憶は朧気で、きちんと思い出せなくて。
そう言えば何で俺は倒れていたのだろう。恐怖の感覚はあるのに…内容は全然覚えていない。
「じいちゃん…俺…」
その時、扉のノック音が部屋に響く。そして、一拍置いてから扉が開いた。
「失礼します。我妻くん、目を覚ましましたか?」
それにいち早く対応したのは、じいちゃんだった。座っていた椅子から立ち上がり、会釈をする。
「ああ竈門先生。今、目を覚ましましたわい。しかしすまんのぉ、うちのがまったく…」
「じいちゃん、痛い!痛いってばっ!」
近付いてきたじいちゃんは、ぐいぐいと頭を押さえつけてお辞儀を強要する。その強さは、年寄りのそれではない…と、思うぐらい強い。くそう、もう少し年相応な力になってくれよう。
「いいんですよ。こちらとしても、不注意で…申し訳ありません」
竈門先生は、そんなじいちゃんの行動を止めて、本当に申し訳無いような表情で謝った。何が不注意でどう申し訳ないのか分からないが、取り敢えずじいちゃんの力が緩んだので、そのまま聞くことにする。
そこで俺は、自分が校内で倒れていたことを知った。そこで、はて?と頭を傾げる。俺確か、学校は出たハズなんだけど…あれ?
「我妻くん、気分はどう?大丈夫」
突然言葉を振られて一瞬ビックリしたが視線を竈門先生から下へと外しつつ、ゆっくり答えた。
「大丈夫です。ちょっと頭が痛いぐらいで…」
その大半は多分じいちゃんに叩かれた事なんだろうけど、取り敢えずそこは黙っておく。でも顔には出てたのかもしれない、竈門先生はそっと頭を撫でて俺の痛いところを探ってくれているみたいだった。
「酷い傷は無いみたいですね」
「少々の事じゃ、コイツは傷つきませんからな」
じいちゃん、それ言い過ぎ。だって俺、今だにじいちゃんに叩かれたらタンコブ出来るし。それがとっても痛いんだけどね!
…でも、それは今置いといて。
やっぱり気になるからちゃんと聞いておきたいんだ。だってきっと助けてくれたのは竈門先生だと思うから。
「でさ、さっき聞こうと思ったんだけど…。どうして俺、ここで寝てるの?」
「お前、記憶が無いのか?」
「う、うん…怖かった感覚はあるんだけど、何かだったのは朧気で…」
撫でていた手を止めて竈門先生は俺の頭から手を離した。
そして俺の言葉を聞いた二人は、顔を合わせて困った顔をする。それは予想外だと言わんばかりだ。
そのせいかも知れないけど…同時に聴こえてくる音は、お互い何かを決意したかの様なものだった。
「…我妻くんは頭を打ってる可能性がありますね。念の為明日病院へ連れていってください」
「分かりました、先生」
だけどその意図が分からない。ただ何と無く、何かを隠されている…それだけは分かった。
でもそれが何かなのかを聞くには勇気がない。それを聞いたら全ての事が崩れてしまう…何と無くそう思えたのだ。
「我妻くん、君は帰宅途中で暴漢に襲われたんだ。また出るかも知れないし、当分は日が落ちる前に下校すること。いいね?他の先生達にも早めに生徒を帰すよう伝えておくよ」
先生の匂いは半分本当で半分嘘の匂いがする。
…この先生が嘘を吐くのは珍しい。人が欺くのが苦手な竈門先生は嘘を吐いても分かりやすい程顔に出てしまう。だから嘘を吐いても嘘だとバレてしまうのだ。その事は他の生徒に弄られるほど有名なのに。今の先生は嘘を本当の事と混ぜることで普通に話せてる。正確には全て本当だけど、大切な事を言ってないだけかも知れないが。だからこそ普通の人なら分からないだろう、先生の真実を。
…俺みたいな、匂いで人の感情が分かる人間以外は。
ただ何で隠さなきゃいけないのか。何を隠しているのか…そこは分からない。
だからこそ俺は暫く様子を見ることにした。この先生はいつも俺を気にするような仕草が多かったから。もしかしたらその理由が見えるかも知れない。
「僕の車で送りましょう」
起き上がって帰り支度を始めた俺達を見て、先生はそう声を掛けてきてくれた。それにじいちゃんは申し訳なさそうに顔を横に振って口を開く。
「ワシ等はタクシーで帰りますぞ?」
けれど先生はそれを良しとせず、どうしてもと言うような匂いをさせて伝えてきた。
「タクシー使うのでしたら、俺の車使って下さい。そちらの方が、早いですし」
「しかし…」
「我妻くんの体の事もありますので遠慮せずに。さぁどうぞ」
そこまで言われれば、流石のじいちゃんも断りきれなかったみたいで。それじゃあ…と歯切れ悪くも送ってもらうことにしたのだった。…竈門先生って結構頑固なんだよね。ちょっとは柔軟になればいいのに。
なんて、そんなことは言わないけど。
「結構おっきい車乗ってるじゃん先生。免許を取ってるイメージも無かったけど、おっきい車のイメージも無かった。先生、独身じゃなかったっけ?」
一通り帰り支度をした先生と共に学校を駐車場へと来た俺は、先生の車を見てちょっと驚いた。
白いワンボックスタイプのファミリーカー。それは家族持ちの男性が持ちそうな車だった。まったくもって竈門先生のイメージには無かった車種だ。
「ああ、弟妹多いんだよ。それに時々実家の手伝いにも車と共に借り出されるから、必然的に大きな車になるんだ」
「実家は何をされておられるんで?」
車に乗り込んで、後ろの座席にじいちゃんと並んで座る。シートベルトを閉めながらじいちゃんが聞けば、先生はエンジンを掛けてサイドミラーを元の位置に戻していた。
「パン屋なんですよ。休みの日は暇だったらパンの配達に駆り出されてしまって」
だから大きい車を買うハメになった…と、バックミラー越しに困ったような笑顔を見せる。
ミラーを直しつつヘッドライトを点ければ、他に車の無い駐車場が明るく照らし出される。静かな駐車場の区切り線や数字がはっきり見えた。
逆に暗くなった車内は、広さもあってかそんなに重苦しくない。それどころか座席は案外座り心地が良かった。
竈門先生がギアを入れてサイドブレーキを下げる。その動作は、大人のそれで。盗み見ていた俺は、どこか落ち着かない気持ちにさせられた。何故だろう、この歳の距離感が何処か不安で寂しさを感じさせるような気がするのだ。
ゆっくり発振させる車に合わせて身体が僅に揺れるのをどこか遠くに感じる。
ナビに住所を入れている気配は無かったので、じいちゃんの説明で場所が理解できたのだと思った。構内の見回りをする前にじいちゃんが何かを説明していたので多分そこで話してたのだろう。初めて知ったけど、先生は地理的な事が結構得意みたいで、口頭の説明でもすんなり理解できたらしい。
「ほぉ…そうでしたか」
「場所は学校から右に出てすぐの大通りに面してるんですけど。まぁそれなりにお客さんも来てくれるので、有難いものです」
そこまで言われて、ふと思い出す。近くに評判のパン屋がある事を。
俺は家が学校から離れているが、地元のクラスメートはあるパン屋のパンが美味しいと絶賛していた。
それが確かそれが、先生と同じ名前の…
「それってもしかして、“竈門ベーカリー”!?」
身を乗り出すように、助手席と運転席の間に顔を出せば先生は笑いながら答えてくれる。
「そう、正解」
「あそこって凄く美味しいから、夕方にはパンが殆ど無いってクラスで有名になってるんだけど。それから看板娘のお姉さんも可愛いって!」
可愛い女の人…それだけで胸が高鳴って、幸せになれる。やや興奮気味で聞けば、声を弾ませて返してくれた。どうやら先生も俺の言葉が嬉しかったみたいだ。
「それは妹の禰豆子だ。器量が良くて、出来た妹なんだよ」
「へぇ〜会ってみたいなぁ」
先生の妹さんか…どんな人だろう。先生も綺麗な顔をしている方だと思うから(童顔だから可愛いと言う方が近いかも知れない)妹さんも綺麗な人なのかも知れない。禰豆子さんかぁ〜響きも綺麗だなぁ。色白だったりするのかな。瞳は先生ぐらい赤かったり?いやもっと薄い?逆に濃いかも?髪は長いのかな〜それとも短いのかな〜。食べ物屋さんだったら短いかも知れない!ああ、本当に会ってみたいなぁ〜。
そんな事を考えながら身体をくねらせてたら、隣のじいちゃんは我関せずで先生に質問していた。
…じいちゃん、そんな可哀想な目で俺を見ないで。
「先生は家業を継がなかったんですか?」
「…どうしても、教師がしたくて。家族に無理言って、この道を選ばせてもらったんです。結局家業は禰豆子…すぐ下の妹が継ぎましたが」
「そうでしたか。それはそれは幸せな事ですぞ。それに先生自身、良い先生になられたみたいですしな」
「いえいえ、俺なんかまだまだです。先輩教師のみなさんに叱咤激励されながらなんとかこなしてるだけです。悩むことも多いですし」
照れたように答える先生は、それでも何処か申し訳無いような後悔しているような匂いを漂わせている。しかしそんな不安も、じいちゃんの一言で消されてしまった。
「人間なんてそんなもんじゃよ。でもそれが解るだけでも、先生は出来たお人じゃ。何かあったらワシにも言ってくだされ」
老いぼれが力になるか分かりませんが、ワシは先生の味方になりますわい…そう言って励ませば。先生は前を向いたまま小さくコクンと頷いた。
「…ありがとうございます。桑島さん」
先程とは違う温かい感謝の香りをさせた竈門先生の匂いは、何処かムッとさせて。胸の奥の深いところをチリチリと燃やしているような感覚にさせられた。
何故、先生を救う言葉が出てこないんだろう。
どうしてじいちゃんが言っちゃうのだろう…一瞬でもそんな事を考えた自分に目眩がする。
だから、先生なんてどうでも良いって…思っているのに。
どうして?
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