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護法の神様


話題:歴史


1891年(明治24年)5月11日、現在の滋賀県で大津事件が発生します。
ロシアからの国賓、ニコライ皇太子を警備の警察官が斬りつけると言う今では考えられない事態です。
犯人は津田三蔵。

ニコライ皇太子は一命は取り留めたものの、外傷は骨まで達する重傷。
何しろ相手が当時の大国ロシアの皇太子。極東地域での南下政策進行中で、日本の脅威となっていました。

時の首相・松方正義は、外交問題になる事を恐れ、津田三蔵被告を極刑に処するべきと圧力をかけます。
当然のように世論もこれを支持。津田三蔵被告の死刑は確実かと思われました。
しかし、政府の圧力に屈せず、司法の独立を守ろうとする男がいたのです。
大審院長の児島惟謙(コジマコレカタ)。
死刑に処する根拠は、
「天皇・三后・皇太子に対し危害を加える者、加えようとする者は死刑に処す」
刑法にこうあったからだ。
それに対し児島は、
「天皇とは日本の天皇である。ロシアの皇太子を指すものではない。この場合、普通人の法律でしか裁くことが出来ない」
として政府と真っ向から対立。

政府は更に圧力を強めますが、児島には通用しませんでした。
審理を担当する堤裁判長以下の判事一人ひとりを説得した。結局、大審院は津田の行為に謀殺未遂罪を適用して無期徒刑を宣告しました。
司法権の独立の維持に貢献し「護法の神様」と日本の世論から高く評価され、当時の欧米列強からも日本の近代化の進展ぶりを示すものという評価を受ける判決だったのです。


その後、児島は議員などを歴任。72才で天寿をまっとうしました。

児島惟謙が下した判断は、三権分立の模範として、法曹界に影響を与え続けています。

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