庭の紫陽花が雨に濡れている。丸くまとまって咲くこの青の花を、あじさいというのだと、ミユキが教えてくれた。

失礼します、と障子を開けて入って来たこの女性が、美雪(ミユキ)だ。妻である。しかし、まだ実感はない。
彼は、窓辺の寝椅子に掛け、頬杖をついて外を見ていた。

「わぁ…和服も合うんですねぇ……」

すたすた、と歩み寄ってくる。

「これでいいか…ちょっと心配でしたけど…」

「あぁ。うん…動きやすくて、気に入った」

紺色の和服は、薄地で軽く、肌触りがさらっとして、着心地が良かった。湿度の高い、こちらの暮らしにはちょうどよいのかもしれない。

「ありがとうございます。喜んでもらえて、嬉しいです」

「こちらこそ」

やさしく返すと、彼女も幸せそうに微笑む。自分も微笑みながら、尚も見つめていると、段々、頬を赤らめて、遂に立ち去っていった。
不思議なものだ。夫婦になったのだから、そんなに気にしなくても良いのに。

あの服は横浜で買ってきた。美雪は彼の和服姿をどうしても見てみたかったのだ。彼は確か、ロシアの人で…似合うかどうかは、不安だったが。それに、折衷といえど、和室の多いこの家で、洋装しかないのも不便ではないかと思った。
背が高くて、脚の長い彼には、短い丈の作務衣でもよく似合っていた。気に入ってもらえたようで、一安心だ。

「ふぅ…」

自分が何故、彼と結婚できたのかは分からない。選んでもらえたという感触がない。同僚として彼の傍に置かれたことも含めて、知らないところで決まってしまったような気がする。
結婚すると同時に鎌倉に越すことになった。修学旅行で訪れた程度で、全く土地勘のないところに暮らすのは、心もとなかったが、元、誰それの旧家だったという立派な家を貸してもらえるのだから、悪くは言えない。
彼の職業はある国の軍人である。大国で、日本にも、幾つか基地を持っている。軍事力があるせいか、与える影響も強い。その基地の一つで、彼女は彼と出会って…こうして寝食を共にするほどになった。
今でも、彼には気を遣う。彼は大尉で、気難しく、彼女はその下で働くという立場だったからだ。いきなり嫁だと言われても、抜けきらない。

「ねぇ……君は、どう思う?」

石塀を這う、かたつむりに話しかけてしまった。ゆっくりと歩いている。そっと、指でつまむと、呆気なく取れた。
部屋で飼おうか。キャベツの葉でも与えて、ひっそり、こっそりと。
自分一人の楽しみが、欲しかった。