「お邪魔します」
靴を脱いで上がった家の中は、とても綺麗だった。きちんと掃除がされていて、塵一つ無い。
「うわぁ…」
思わず、嘆息がこぼれる。
「とても、綺麗な家ですね」
おずおずと、でも素直に褒めると、
「ありがとう」
微笑んでくれた。ふわっと、周りが温かい空気に包まれたようになる。
戸惑い、顔が熱くなって、手を頬に当てた。
家をこんなに美しく保っておけるなんて、主婦の模範生だ。私も、こうならないと……と、散らかった自室を考えながら思う。
(帰ったら、片付けよう)
奥さんは部屋に案内すると、台所から声をかける。
「ちょっと待っていてね。美味しいお茶を入れるから」
薦められた、ダイニングキッチンの椅子に座って待つ。
他人の家に呼ばれるのに慣れていなくて、そわそわと、辺りを見回す。ただ掃除が行き届いているだけでなく、落ち着いたベージュ基調の色合いで、インテリアも統一されている。
考えているんだな、と、雛子は思った。すぐには真似できない。
「はい、どうぞ」
薄い陶器の、繊細な意匠のカップに、そっと注がれた紅茶からは、あまり馴染みのない、しかし心地の良い香りが漂っている。
奥さんは正面に座った。その丸くて優しく、でも、整った顔立ちを見ていると、何だかとても緊張してくる。
「紅茶…ですか?」
そう尋ねたとき、奥さんは自分のカップに手を伸ばし、口をつけようとしているところだった。
細い指先。爪は何も塗っていないが、短く整えられている。色白ですべすべとした、綺麗な手だ。
「ええ、ちょっと匂いが変わっているでしょう。フレーバーティーなのよ」
奥さんが飲むのを見て、雛子も、一口、味わってみた。何の疑いもなく。
湯気が立って、ちょっと熱い。でも紅茶はこれくらいが美味しいのかも。
思わず嬉しくて、にこにことしてしまう。
「ふふ…」
雛子を見て、奥さんは笑った。理由が分からず、きょとんとする。素直に喜んだつもりだったが、おかしかったのか。少し心配になり、両手で包み込むようにカップを持ち、紅茶を飲んで動揺を隠す。
ありがとうと言ったときとは違う、隠微なものを秘めた、どこか満足げな笑みに思えた。何故そんな表情をするのだろう……。
全く雛子には、分からなかった。
寂しくて、寂しくて。
ただ猛烈に、寂しくて、雛子は帰途を急ぐ。帰れば、ゲームと、ネットが出来るから。
自分にはそれだけでいい、そのはずだった。
でも…。
その時、何故か、その家の前で、立ち止まってしまったのは…、小さなピンクの花が、可愛かったから。白い門に括りつけられた、茶色のプランターの中でひっそり咲いていた。
しばらく、見てしまった。家にも何だか、帰りたくなくて。しゃがみ込んで、花をつつく。
「あら…どうしたの?」
きぃ、とドアが開いて、奥さんが、顔を出した。
「うわっ、あっ…、何、何でも、ないんです……」
他人の家の前で、帰宅途中の学生が、こんな格好をしていては、それは不審だろう。
「すみません…」
慌てて弁解しながら、改めて相手の顔を見た。
知っている人だった。帰宅途中、登校中、よく話しかけてくれるおばさん。学校で挨拶運動が推進されていた頃、気紛れに、雛子が挨拶をしたのがきっかけだった。
綺麗で、優しそうな人。挨拶したのもこの人なら、返してくれそうだったから…。
この家、彼女の家だったのか。
雛子は、とても恥ずかしくなった。
「本当、すみません。すぐ帰りますから…」
退散しようとしたが、
「お花、綺麗でしょう?」
と、気にしていないように優しい声で話しかけられ、つい、足が止まる。
「はい。つい…それで、見てしまっていました」
奥さんは、ふふっと笑った。
気のせいか…いつもの優しさに加えて、何か仄かに甘い感じがした。
「良かったら…お茶でもしていかない?」
勿体ない申し出だ。
「え、あ、いい…んですか?私なんか……」
もじもじしていると、中に入って、と手招きされる。
「私一人しか居ないから、大丈夫よ。…それとも、用事がある?」
「いいえ」
雛子は首を振った。躊躇はあったが、断ったら次はないような気がした。
「じゃあ、上がらせてもらいます」
ちょっとお茶をするだけなら、と、応じることにした。
「どうぞ」
奥さんがドアを、雛子一人が通れるくらいに開けてくれて、入ってしまうと、元のように閉じられた。