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地下室の手記

シュールレアリスムに影響を与えたドストエフスキーの、1864年の中編。

シュールレアリストが、"シュールレアリスム"と"革命"の共通分母として認めた<ある怒りの状態>が、地下室の住人にもある。

では、地下室の住人は、シュールレアリストなのか。

住人は、なにに対して怒りの状態にあるのか。

《すべての美にして崇高なるもの》にだろう。
つまり、理性だ。

その《すべての美にして崇高なるもの》を崇拝する近代的人間に、どうして欺瞞が生じるのか。

それは「理性の勝利がもたらされる、と〜わざと狂人になってでも、理性を振り捨て、自我を押し通す」からである。

なぜなら「人間があれほど破壊と混沌を愛するのは〜目的を達し、自分たちが創っている建物を完成するのを、自身、本能的に恐れている」からであり、
「自分が食べたいと思うときに、満腹です、などと言うつもりはない」からである。

住人は嘘がつけないのだ。

それ故に、彼は地下室で孤独に40年間も生きることになる。

地下室の住人は、世間が崇拝する《すべての美にして崇高なるもの》に対して、なにかを発見した。
しかし、彼はこれを孤独の状態でしか叫べなかった。
後に、シュールレアリストがドストエフスキーをシュールレアリスムの先駆けとし、地下室の住人が発見したものを再発見する。
そして、シュールレアリストはそれを武器に革命の準備をする。

シュールレアリスム理解の手助けになる中編だと思う。
構成もおもしろく、感動的でもあった。


話題:読書日記

俳句教養講座 第三巻 俳句の広がり

俳句教養講座 第一巻 俳句を作る方法・読む方法「俳句教養講座 第二巻 俳句の詩学・美学」に続く、第三巻。
今回は、俳句の周辺ということでしょう。俳句のひろがり。
川柳もおもしろそうだ。雑俳のどれもおもしろいだろう。前衛や自由律もおもしろい。
一連の俳句教養講座はこれで読み終えた。
しかし、句集を通して読んだことがないのはどうか。実際に作品を読まなくてはならない。それが一番の教養だ。次はなにか句集を読んでみようと思う。




話題:読書日記

ベンヤミン・コレクション〈1〉近代の意味 「シュールレアリスム」

※ベンヤミン・コレクション〈1〉近代の意味に収録されている「シュールレアリスム」についてのみの記事です。

ドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンのシュールレアリスムに関する小著。
むずかしかった。
現在、シュールレアリスムの歴史に関する本を読んでいるが、この後に読んだほうが理解し易いかったかもしれない。
とりあえず、短いものだったので先に読んでみた。

ベンヤミンは卓越した文章家でもあるようで、学問に対する著作にしては文学的な表現が多いようにも思う。
事実、それが思考の助けになることもあった。

無力な妥協的態度との対照として、ダダとも決別したシュールレアリスムを<志操>という言葉で表したのは、ブルトン、ひいてはシュールレアリストの内部を垣間見たわかりやすい表現だった。
ブルトンの「自由はこの世ではいくたの非常につらい犠牲を払わなければ得られないものであるが、それが存在する限りは、無条件に、十全に、一切の功利的な計算抜きで享受されなければならない」という言葉に、シュールレアリスムへの信頼と志操を感じる。

このように、ベンヤミンの文体が思考のつっかえをとくきっかけになる。
しかし、その文体の緻密さ繊細さの故に読む力も必要だと思う。
私も、シュルレアリスムの政治へのパースペクティブに関しては理解できていない。
とりあえずは、現在読み進めているのを理解の助けにして、これについてもう一度考察してみようと思う。



話題:読書日記

一九二〇年代の画家たち

時代背景も知らずにいきなり理論だの思想だのを展開されても、のみ込めないだろうなと考えながらシュールレアリスムに関する本を探していた。
すると、このタイトルが目に留まり、1920年代の個々の画家を通してなら当時の状況がみえるのではと思い読んでみた。

とりあえず、この考えは正解だったと言ってよい。
まず、シュールレアリスムについて私見では、ひとつの根本に独立した運動のように考えていたが、当時、様々な<イズム>や<イスト>が乱立しており(思い当たるもので、周辺のものを挙げてみると、キュビズム、フォービズム、表現主義、ダダ、シュールレアリスム、構造主義、ピュリスム、デ・スティル、バウハウスなどなど。この多さに驚きである。これが同時代的に進む。)そのコンテクストなしにはシュールレアリスムの本質は見えなかったであろうこと。
そして、1920年代というのが、想像以上に複雑で猥雑な時代だったということ。

この本は、シュールレアリスムにほとんど言及していないし、登場する画家もマイナーである。舞台もフランスより、ドイツやロシアが多い。
それでも、当時の社会状況を知る上では良かった。
この時代の社会性が画家に与えた影響は大きく、それ抜きでは当時の<イズム>や<イスト>は語れぬことはわかる。

”彼らは同時代的な精神をともに呼吸しているのだ。それは<二〇年代>という時代精神なのである”-あとがきより

もっと20年代を知るべきだろうが、次はシュールレアリスムに言及したなにかを読んでみようと思う。



話題:読書日記

ミュシャが見たパリ 時代を映すポスター

前回のミュシャ展の記事でも書いたが、どこまでも描き込まれているのに全体のハーモニーがとれているのは不思議に思う。
複雑なものは、多少ともどこか違和感を感じるがミュシャにおいてそれはない。

モデルのポージングやレタリング、造形とシンボルの接合、背景のパターンからその配置まで不自然なく心地好い。

後に秩序や安定、合理性が求められるなかでミュシャのようなアール・ヌーウ゛ォ調のポスターは減少するが、私から見るとミュシャのポスターには秩序や安定があり合理性も持っているように思える。

"時代を映すポスター"とあるように、血の足音のする時代が華奢なポスターを許さなかったのだろう。

話題:芸術
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