書きはじめに『俳句は、創作する側と享受する側とがきわめて近い文学だということができるのではなかろうか』と示される。
そして、各題目で俳句の構造をみていき、仮定は証明される。

これは西田哲学に通ずるところがあるのではなかろうか。
吾即汝、汝即吾がそうであり、このエッセンスが俳句という構造の随所でみられる。

最近、思想の実践としての表現が必要だなと考えていたが、俳句がそれだなと悟った。
安価で手に入れた正岡子規の「病床六尺」で俳句に興味をもち、数多ある俳句講座本のなかからこれを手に取り、冒頭で吾即汝、汝即吾を感じる。
直前に、西田哲学に触れていなかったらここまで因縁は感じなかっただろうし、ここまで興奮することはなかっただろう。

そして、なんと西田哲学の日本的なこと。
俳句のおもしろいこと。


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