スポンサーサイト



この広告は30日以上更新がないブログに表示されます。

戦術と指揮―命令の与え方・集団の動かし方

一応、軍事上の戦術と指揮をビジネスに生かそうとの試みらしいが、本文においてその適応は見えない。
というより、ビジネス書を口実として戦術について語りたいことを語っているように見える。
しかし、そのようなビジネスへの適用に期待はしておらず、純粋に戦場における戦術の方法論が知りたかった私としては満足である。

前半は、紙上での軍事記号の説明、先人の戦術理論、簡単な状況での戦力配置など言葉としての戦術理論。後半は仮想戦場を用いて、前半にはない流動性のあるシュミレーション。やはり、卓上と戦場では理論が異なってくる。
特に後半はゲーム感覚で読み進められ、頭も使うので楽しく読めた。



話題:読書日記

糧なき土地-ラス・ウルデス

シュールレアリストの映画監督ルイス・ブニュエルの三作目。
スペインの最貧地方の生活を描いたドキュメンタリー映画。
上映当初は、政情不安定であったフランコ政権により上映禁止となり、ブニュエルは指名手配までされることになる。

一見、貧困に苦しむ地方の実態を捉えて、その悲惨さを暴こうとする同情的な映画にみえる。
それは、監督としての処女作であるアンダルシアの犬とは全く違い、観客に目的を誘発させるように仕組まれているように映る。
しかし、アンダルシアの犬が夢の超現実性を示そうとしたのと同様に、この映画においても超現実的なものの記録であり、それの記録映像作品としてあるのではないだろうか。
それは医学写真が科学的な方法であり、印象によらず客観的に解釈する方法であるのと同じであり、ブニュエルはそれを映像で実践する。

ナレーションに従った映像が映し出されるのには、計算された構成や編集はみえるが、それは主情による超現実性を示す。これはブルトンのナジャにもみられる。

創造されたものよりも、ありのままのものに衝撃がある。なぜならそこに神話はなく、その無限の存在を認めるのには苦労が伴うからである。(シュールレアリスムの目的はこれの証明ではなかったか。)
そして、この映画を上映禁止にしたフランコ政権が、それの超現実性を実証する。

つまり、彼が示したかったのは悲劇というより、その悲劇の超現実性ではないだろうか。



話題:映画

LIFE!

トレイラーで、主人公が務める雑誌社の表紙が掛った社内廊下を主人公が駆け抜けるシーンが良くて期待していた映画。
原作は未読。

ロケーションが良く、迫力のあるシーンもあるので、異国に飛び出した!という感じが伝わってくる。
しかし、場所を転々とするせいか(前後の土地に繋がりがない。飛行機的な移動。)その異国情緒をじっくりとは味わえない。
原作の物語構成があるからなのだろう、ストーリー重視になっている。(主人公の空想癖もこの映画においてはいらないような気がするし、なくてもよいシーンも多かった。たぶん、原作においては重要なのだろうが。つまり詰め込みすぎ)
もっと、シンプルに長回しでの俯瞰があったり、ただロードムービーとして楽しめる映画を期待していたので少し残念だった。

ただ、好きなシーケンスもある。バーでの「トム少佐」や、火山噴火を撮影する冒険家のショーンの登場は感動する。

これは原作を読んでから観ると楽しめる映画なのかもしれない。

話題:映画

フロイトの情熱 精神分析運動と芸術

例えば、フロイトを出発点とするシュールレアリストは無意識から芸術を取り出す。
抽象的で観念的な外見を持ったそれらの作品を分析するとき、彼らが参考にしたフロイトの精神分析を用いて観察するのが望ましいように思う。

シュールレアリスムへの参考として、本書のフロイト分析は参考になった。
精神分析の主体とは何か?と出発し、精神分析は芸術家フロイトの作品であり芸術的に纏まりを持った学説であると切り込みをいれ、芸術の方法論を援用し説明していく。
例えば、ニーチェの悲劇論であったり、詩人の詩作の表現論から説明する。
どれも、フロイトが参考のために使用したものである。
シュールレアリスムに言及はないが、フロイトの芸術への接近を分析しそれを切り口にして精神分析を見ていくのは、芸術運動であるシュールレアリスムには多いに参考になる。。

芸術を基に形成したフロイトの作品が、シュールレアリスムの基になり芸術に昇華していくこの回帰はおもしろい。



話題:読書日記

キック・アス ジャスティス・フォーエバー

正直なところ残念だった。
原作のコミックは未読なのでキック・アスそのものがどういったジャンルかはわからないが、映画では現実離れしないヒーロー物というのがひとつの魅力としてあるだろう。
一作目は、強烈なキャラクター設定(メインのキックアスはオタクでひょろひょろ、ヒットガールは童顔で華奢なのに何でも使いこなす最強女の子)が、現実性とファンタジーとの良い架け橋となっており超展開でも笑いで済ませれた。

しかし、今作では設定と王道とを縦横無尽に駆け巡れず、スクリーンのこっち側を気にしている。
というより、そうならざるを得なかったようにも思える。

王道でよくあるスーパーパワーのラスボスは登場させれないので、代わりに多くのヒーロー・悪役を登場させる。
しかし、どうしても各キャラクターにインパクトが欠け、多すぎるが故に存在も薄い。(スターズ・アンド・ストライプス大佐がジム・キャリーでなくてはいけなかった理由もよくわからない
さらに、現実離れしてはいけないのでアクションシーンは殴りあいで解決させる。それぞれの活躍が背景で終わってしまい、メインには結局いつもの二人・・・
しかし、あくまでヒーロー物なのでストーリーはヒーロー的解決をみせる。

一作目ではクールに映った暴力的なセリフも鮮血が飛散するシーンも今作では、アイアンマンがウェポンをぶっ放すような、スパイダーマンが糸でビル群移動するようなものでしかなくなっている。
展開にイライラした観客を宥めるものでしかない。
中途半端に設定を守り、中途半端に王道になっているように感じた。

話題:アクション映画
前の記事へ 次の記事へ