賑やかなリビングを背に、隆也の母は息子の部屋に向かった。


部屋のドアの前に立つと、確かに物音ひとつしない。
明かりも消えているようだ。
寝ているだろうと思いつつ、小さく呼びかけながらドアを開けた。

「タカ…?」

薄暗い部屋の中に入っていった。
顔のあたりをのぞき込もうと近づいた時。

「…なに?」

気配を察したように、息子が応えた。

「ああ、起きてたの」

母はそこで動きをとめた。
息子の丸まった背中に向かって尋ねる。

「夕食、どうするかと思って。下で食べられる? それとも、ここに持ってこようか?」
「……夕飯、なに?」
「煮込みハンバーグ」
「……」
「食べられそうになかったら、おにぎりでもお粥でもいいけど」
「ん……大丈夫。下に行くよ」
「そう? じゃあ、タカの分、用意して待ってるわね」
「うん。ありがとう」

母親はまた静かに部屋を出ていった。

一人きりになった部屋で、隆也はため息をついてモゾリと身体を動かした。


泣いていたのが、気づかれなくてよかった。


さっきから、なかなかとまらず、すぐにコロコロと涙が落ちてくる。
いいかげん、こんな気持ちから抜け出したかった。


食欲はそんなになかったが、こんな空間にいたら自分がダメになってしまう。

母親が突然、入ってきたのはドキドキしたが、いいきっかけだった。

「あーあ…」

隆也は気持ちをはき出すようにつぶやいて、それから思い切って身体を起こした。
パジャマ姿のままで廊下にでる。

リビングに行く前に、洗面所に寄って顔をみてみた。
ボサボサの髪。泣いていたとすぐわかりそうな赤味を帯びた目。

「あんだよ、これ…」

ため息をつきつつ、少しでもマシに見えるようにクシや洗顔で見た目を整える。

(きっと、今日は体調が悪いから、気分が落ちてんだ)

さっきからずっと、頭に浮かびそうになっては振り払っている思い。

(さっきまで)

元希さんがいた。

側にいた。
すぐ側にいた。

あたりまえのように会話ができていた。

そしてまた、手放してしまった。


(あ−、ヤダヤダ)

なにを考えているのだろう自分は。

忘れよう、忘れよう、忘れよう。

隆也は自分に言い聞かせて、鏡に映った自分の顔を睨みつけてから歩きだした。


リビングに近づき、賑やかな野球中継の音がドアから漏れているのを聞いて、隆也の心は軽くなった。
一緒に、美味しそうなハンバーグの匂いもしてくる。

(父さん、帰ってきたのかな)

今日の試合、父が楽しみにしていたことを知っている。
もちろん、自分もかなり気にしていたが。


隆也の唇に、ほんのりと笑みが戻ってきた。

安心できる場所というのは、こういうことをいうのだろう。

どんな気持ちを抱えていても、この雰囲気の中に入れば、いつもの自分でいられる。

そう思って、隆也はガチャリとドアを開けた。