自分達が帰宅難民であることを自覚した私達は、明治通りを北上しつつ、何度も実家に電話をかけ、安否確認をしようとした。しかし繋がらない。
 うちの実家は同じ埼玉市内なので、大した被害は無いはずだが、家の中は父の仕事の資料や本で溢れており、落下物に事欠かないのだ。ぽっくり逝っても不思議じゃない。

 私達の後ろで、どうやら電話が通じたらしい若い女の子が、車で迎えに来て欲しいと母親にせがんでいる。

「…そういえば家ん中どうなってるかなあ…。」
「わかんない…。うちはボロマンションだし、5階だし。あれだけ揺れたら無事じゃないよ。」
「パソコン…。」

 買ったばかりのパソコンがどうなっているか…。まだ一回目のローンも済んでいないのに、落下してオシャカになっていたら…と思うと胃の辺りがドスンと重くなった。

 何もかもやり直し…。いや、私らの経済力ではそれも無理だろ、と。

 気が重くなったからか、みけは休みたくなったらしい。その時、赤十字社前を通り掛かった。
 赤十字の人々が声をかけていた。トイレが利用出来ること、水を配布していること、休憩出来ること―。

 私達は少し迷ったものの、結局建物に入り、しばらく休憩することにした。そしてそこで色々な情報を聞くことが出来たのだ。

 鉄道はマヒ状態だが、東京メトロは復旧に向けて急いでいることや、千葉方面で火災が起きていること。東北地方を大津波が襲っていること。
 ここに来るまで、私達は津波がとんでもないことになっていることを知らなかった。

 この時点で、私達二人はケータイの電池が少なくなっていることで、やたらに使えなくなっていた。唯一、情報源となっていたツイッターにも繋ぐことが出来ない。
 この日に限って二人とも充電器を置いて来てしまったのだ。

 赤十字社では、充電器さえ持っていれば充電させてもらえた。これから私は充電器を持って出る習慣をつけようと誓った。

 赤十字社の人達は、初めのうち、ラジオのNHK放送を流していたが、その後、ラジオをやめて館内放送で情報を流してくれる様になった。
 そして、しばらくして都営地下鉄大江戸線が運転を一部再開した、と伝えてくれた。何人か、人が赤十字社を出て、駅へ向かって行った。
 しかし、直後、再び止まってしまったという放送が流れた。後で聞いた話に寄ると、駅は何処も人で溢れ返り、寒い所で座り込む人々が沢山いたそうだ。

 そしてその頃せっしーは、私達姉共がいる赤十字社の前を、休憩することも、トイレを借りることも考えず、さっさと通り過ぎて行った…。そんな彼女が休憩場所に選んだのは、居酒屋だった…。

 程なくして、これまで気丈を保って来たみけが、ついに限界に来てしまい、横になって休みたいと言い出した。
 そこへ館内放送が入り、NHKの情報として、都庁と新宿区区役所と都立新宿高校が、帰宅困難者の受け入れを開始した、と伝えてくれた。
 そこで、私達は移動することにしたのだが、実はこれが状況によっては大博打になるということを知ることに。

 まず、一番近い区役所を目指したが、歌舞伎町のど真ん中にある為に、場合によっては怖いことだった。しかも、私達はそこでそれがガセネタだったことを知らされた。

 警備員のおじさんが、訪ねて来た人々に、区役所は受け入れをしていない。こちらへ行くように、と地図を手渡していた。NHKが間違った情報を伝えていたのだ。その後、地図を渡されて移動した人の中には、迷って辿り着けなかった人もいたようだ。
 渡された地図を頼りに、私達は”新宿区文化センター”という所へやって来た。

 中は薄暗く、警備員のおじさんが立っている他は特に案内してくれる人もおらず、ただ一枚の貼り紙”4階を解放しています。”があるだけだったが、暖かく、静かでほっと出来る感じがした。

 恐らく、特別に泊まり込みをしてくれているのだろう。女性の職員さんらしき人が、お湯とお茶と少しのお菓子を用意してくれた。

 しばらくして毛布も配布してくれたので、姉は床に横になって休むことが出来た。床は絨毯だったので、冷たくもなく、比較的静かで過ごしやすかった。

 余震が無ければ―

 断続的に揺れが来ていたので、眠ることなど出来ずにいたのだが、突然警戒音が鳴り響いた。

―緊急地震速報です。強い揺れに警戒して下さい―

 寝ていた人々が一斉に起きた。そして揺れが始まった。ところが…

 殆ど揺れなど感じずに終わってしまった。何なのか、という感じ。

 実はこの様なことがかなりの頻度であったのだ。こちらが地震を感じる方が地震速報を聞くより早かったり、もっと大きな揺れが頻繁にあるのに、それには反応が無く、速報があった時の揺れは大したことがないという…。
 警報が鳴る度に緊張が走り、心臓に悪いことこの上ない。この緊急地震速報というもの、果たして必要なのか。やたらに恐怖心を煽り、ストレスを与えるだけにならないか?

 後でせっしーに聞いた話では、なんとこの緊急地震速報のシステム、初めの地震の一撃でイカレてしまったらしいのだ。それならやたらに鳴らすのやめて欲しいなあ…。

 話を戻すが、結局私達は朝の6時までその文化センターで過ごさせてもらい、その後、復旧したという東京メトロ副都心線と東武東上線で帰ることが出来た。

 文化センターを出る時、出入口で職員の方々がカンパンの配布を始めていたが、私達は困っていたわけではなかったので、頂かずに出て来た。
 後で分かったことだが、私達はこちらへ来られてとても運が良かったのだ。

 妹せっしーはその後、成増まで徒歩で帰り(信じられない!)、その後捕まえられたタクシーで帰って来たが、なんと私達の家周辺は停電していて信号も点かず、まるで無法地帯の様だったそうだ。
 彼女はそのまま息子である甥っ子Bの提案で実家へ行って休んだそうだ。
 実家は書物は落ちたものの、両親共に怪我もなく、無事だったことが帰って来てから分かった。

 長男甥っ子Aは友達の家に避難していて無事。ただ家の中はめちゃめちゃだと言っていた。

 そして、おんぼろマンションに近づきつつ、私達の気持ちは沈み、少々憂鬱に。友人からのメールでも、家の中がひどかったとあったので、自分の家だけが無事なんて都合のいい話は無いだろう。
 恐る恐る鍵を開ける。玄関先に据えてある女神様の祭壇は…なんと!無事!花瓶も倒れていない!
 私の部屋は雑誌が散乱していたものの、クローゼットも本棚も無事だった(後で中を見たら酷かったが…)。
 そして、台所を開けると……ああっ!
 私達は靴を履いて入り直した。ガラスの破片が散乱していたのだ。

 カップボードに飾ってあったグラスやカップ&ソーサーが見事に落下。お気に入りのウェッジウッド\16,000が木っ端に!
 他にも、私らには高価だった土産物のおちょこや非売品のディズニー、スーベニアグラス等が粉砕のうきめに合っていた。
 が、奇跡の様に無事だった物も。

 そして…パソコンである。そろりそろりとと部屋に入った。

…パ、パソコンは…無事だった…

 プリンターもテレビも無事だった!本は散乱していたが、クローゼットも大丈夫。だだ、胡蝶蘭が落下物で傷つけられていたのが…(泣)。

 そうしてみけと私は休む間もなく掃除をし、冷蔵庫もチェックしたが特別異常も無く、胸を撫で下ろしたのであった。


 その後、あの夜に都庁へ行った人の話を聞いた。
 尋ねて来た帰宅難民の方々は段ボールを配られ、外気の入る寒い場所で毛布も借りられず、水も無く、カンパンの配布も無かったそうだ。有料の公衆電話には長い列。
 お年寄りや子供もいたというのに、それはあまりではないか。

 今回の経験で多少なりとも分かったのは、被災した当人達程情報が入らないということや、テレビの情報も外れている可能性がある、ということ。もしかしたら、自分の勘の方が余程正しいかも知れないのだ。

 今回はまるで避難訓練の様なケースだったが、本当に廃墟の様になった東京の街は、とても恐ろしいかもしれない。

 地震や災害。私は決してそれらを他人事だとは思っていなかったが、やはり経験しないと分からないものだと実感した。

 地震はまだ続いている。

終わり。