スポンサーサイト



この広告は30日以上更新がないブログに表示されます。

12日間の聖なる夜に…

 日本ではクリスマスは23日〜25日までで、翌日からは恐るべき早変わりで正月モードです(笑)。

 でも、本当はクリスマスって12日間続くらしいと、この間知りました…。うぬぬ…ぬかったわ!

 カトリックはその辺しっかり12日間クリスマスやってますね。プロテスタントは、結構いい加減。
 なので!実は毎年年明けまでクリスマスツリーを飾ったままにしている、うちは正しかった!

 静かに、静かに年を越えましょう。本当はクリスマスは家で家族と過ごすものらしいです。

 さて、久しぶりに…18年振りに、新曲が出来ました(笑)。

 この間の衝撃的な出来事を歌ったものですが、悲劇的なことがあると、曲が出来るのは何ででしょう?

 ネガティブ嗜好(笑)。

 曲が出来たといっても頭ん中なので、編曲等はこれからなんだけど、どうやって再現しようかなあ…。

 Wiiの作曲ソフトってどうよ。

 なかなか簡単で結構クォリティー高!みたいな印象だったんだけど、近くに購入した人がいないので。

 Wii自体持ってないし(笑)。

 こりゃ、本気で購入考えようかなあ…等と、夜空を見上げながら考えている、ミスランディアでした。

 そういえば、クリスマスに歌われる聖歌「もろびとこぞりて」に出て来る歌詞”主は来ませり”を日本語じゃないと思っていた、という話を聞きましたが

 昔、私はあれを、ウルトラマンの”シュワッ!”だと思っていたという話を聞いたことがありやんす(笑)。

 まあ、そんなこんなな「もろびとこぞりて」ですが、あれ、キリスト教を古代密議のユダヤ版という観点でよく聴くと

別の解釈が出来ます。つまり

自分の魂に神を迎えた、という捉え方で歌うと、凄まじい退魔の歌になるんです。

特に2番の歌詞と来た日にゃ…(笑)。この歌で一度、姉に憑依したヤなモノを撃退した経験が…( ̄0 ̄)b。

 まず、曲自体の波動が素晴らしい!光が降りて来るかの様なのです。クリスマス霊歌として知られていますが、実はもっと深いものなのかもしれません。

 来年以降は、今まで通りのふざけた内容も勿論ですが

こういった一種ヤバ目の記事も載せて行こうかと思ってます(笑)。

明日は、大晦日です(^^)#。

冬至の祭りによせて

 この間の銀座某所での忘年会の際、乾杯の音頭を取った師匠がこう言った。

「今年は皆さん、いいこと悪いこと、色々あったと思います。来年は…いいことだけにしましょう!」

 師匠のこの言葉は、来年はラッキーだけを期待しましょう…という意味ではなく、全て起こって来ることを皆良い形へと変えて行きましょう、という意味だと、私は受け取っていた。

 その時は笑って…。

 図らずも冬至の日、太陽が死んで甦ると、昔から言われて来た神聖な日に

 私は、全身がばらばらになるのではないかと思う程、衝撃的な出来事に遭遇した。

 最も恐れていた出来事。

 私を…冗談ではなく、死に追いやる様な出来事。

 それでも師匠に導かれた私の道は、何とか私を繋ぎ止めた。

 まさに瀕死。

 なんとか立ち直ろうともがき、這い上がったかと思ったら

 再び突き落とされる―。

 それでも私はなんとか深淵から戻って来れた。

 その時、私が知ったのは、これは私だけではないということ。

 2012年の暮れまで後2年だ。

マヤの暦の終わり―。

 しかし、これは映画になった話を言っているのではない。崩壊するのは物質ではなく、人間の意識の方なのだ。

 それまで当たり前だったもの、所有しているお金や土地、社会的地位等の財産だけでなく、あらゆる人間関係、家族、恋人、親子関係も例外ではない。果ては自身のものだと信じて来た文化的、人間的価値観ですら解体される。

 私は何度かこのあらゆる解体に曝された経験があるが、これは本当に辛かった。

 そしてまた直面している。

 私がここで言いたいのは、この通過儀礼から逃れられる者は一人としていない、ということだ。

 今まで手放して来た人以外は―。

 そして、その苦しみの中にいる時、人は大抵自分だけが苦しんでいる、と錯覚してしまう。

 そうではない。皆、それぞれのレベルで直面している。

 そういう思いを抱いていた時、象徴的なものを立て続けに見た。

 爆弾テロ。毎日大量の人々が亡くなって行く、イラクの日常。

 十年前、世田谷で起きた、信じ難い一家殺害事件の続報。

 平穏で、毎日ご飯が食べられるのが当たり前で、普通の今の日本。

 世田谷の気の毒な一家も、自分達が21世紀を迎えられないなんて、露ほども思わなかったに違いない。

 そしてまた私達も、世田谷の事件やイラクの現状を、自分達とは関係ないと考えていたりする。

 けれどそれは幻想かもしれないのだ。

 これからもしもあなたが信じ難い事態や、最も恐れていることに遭遇したなら覚えていて欲しい。

 あなたは決して独りではないし、あなたが間違えた訳でも、相手が悪い訳でもないのだと―

 そして、その通過儀礼を乗り越えた先にあるものは、常に、古いものよりも良いものなのだ。

 だから感謝して生きて行こう。どんなに現実が辛くても。

 2011年、人々のテーマは

”手放す”だそうだ。

年賀状

 え〜、今年もこの季節がやって参りました。年賀状書き。
 子供の頃、2学期末、年賀状書き、大掃除と続くこの時期は、とっても憂鬱な季節でもありました。

 クリスマスの美しいイルミネーション、通っていた教会で行われるキリスト生誕劇、クリスマスツリーの輝き等の、幻想的で魅惑的な雰囲気を、一瞬にして無かったことにする、親父の説教!

 うちの親父は教育パパだった…。

 毎年12月25日クリスマス当日の夜は、姉妹三人雁首並べて成績表を前に、親父の怒りの説教を喰らう日でもありました。

 ま〜た私が全っ然勉強嫌いでやらなかったからね〜(笑)。全く毎回毎回夜が明けるんじゃないかと思う程、長々と怒られましたな( ̄3 ̄;)。

 さて、説教日の翌日からわしら三人は、家の手伝いと学校の宿題、それから年賀状書きをやらされることになるのですが、これがまあ、面倒で…。
 当時はまだ殆どが手書きで、特に宛名書きは大変な作業だった。

 ある年、我が家にプリントゴッコなる印刷機の一号目が導入された。
 内容は一度描いてしまえば後は上手く焼き付けて印刷するだけ…ということで、かなり作業を楽なものにしてくれたのだが…

 宛名書きの大変さは変わらなかった…。

 今現在、殆どの人は新年の挨拶をメールで済ませ、わざわざ年賀状を出す人でも、コピーして宛名もパソコンで刷り出してシールでペタッ…が殆どでしょう。

 しかし、私は今だに全部手書きである。

まあ…大した量ではないので…。パソコンも無いし(笑)。

 だが実はもう一つ、理由があるのだ。


 あれは中学3年の年末だった。

 当時、プリントゴッコで自作のメッセージを印刷することすら面倒になっていた私は、やはり同じく年賀状作成をサボりたがっていた妹せっしーと共謀して、親父さんが自分用にデザイン、作成して印刷屋に作らせた年賀状をネコババし、何の一言も加えぬまま、友人知人等の宛先だけを書いて郵便局に出してしまった。

 味気無い年賀状だった…(笑)。

 そして翌年、新学期が始まった時、学校の廊下でバッタリ会った後輩のTくんに猛抗議されてしまった。

 Tくんは、せっしーと同じクラスで、私の部活(水泳部)の後輩でもあった。
 当然、せっしーも彼に年賀状を出していた。

 Tくんは、手書きの凝った年賀イラストを、一人一人違ったデザイン、テイストで書き上げて送ってくれていたのだ。
 しかし、せっしーと私が送った年賀状は、二人共全く同じ!何の工夫も無ければメッセージも無い!あんまり酷い(≧ω≦)!と言うのだ。

 これはさすがにしまったと思った私は、必死でTくんに謝った。

 この出来事は、私の心の奥底で強烈なインパクトとなって残った。

 そしてそれ以降、私は一人一人に手書きのイラスト入り年賀状を出す様になったのだ…。

 今年も年賀状書きの季節が来た。ふと、あの時のTくんを思い出しながら、簡単であっても思いを込めて書く。

 出来ることなら笑いを取れますように(笑)。

 来年はうさぎ年〜!

ナルドの香油

♪ナ〜ル〜ドの〜壺〜な〜らね〜ど〜…という賛美歌がございます。キリスト教に縁の無い方々は、余りご存知無いでありましょうが。

 この世には、ナルドの香油なる、大変高価な香りがございます。

 キリストにまつわる有名な話として、ベタニヤのマリアという人物が、イエスキリストの話を聞くうちに、彼の最期を悟り

 家に大切に保管されている、封印されていた石膏の壺を持って来て割り

 中の香油を注いでキリストにかけ、自分の髪で拭き取った(つまり、十字架に架かって死ぬことを知ったので、死者の身体に香油をかけて聖別する様にした。死の準備をした。)

という話がありまして、その時マリアがかけたその香油が、ナルドの香油と呼ばれているものなのでありますです。

 さて、新約聖書によりますと、ベタニヤのマリアが香油をかけた時、
辺りに芳しいその香りが満ちた、と記されています。
 その香油は大変高価で、今の価値に換算すると300万円相当にもなるそうで、大変な価値があったそうです。

 そんなナルドの香油ですが、一体どんなかほりなのでしょう。

 カトリックは今でも香りに対し、なかなか重要なものと位置づけている様ですが

 プロテスタントは余り理解が無く、特に日本において、聖書に出て来る香油は名ばかりで

余り知っている方は少ない様です。

 ある日本の牧師様は、そのブログの中でナルドの香油に対し

限りない憧れと、夢を語ってらっしゃいました。

どんなにか、芳しく
どんなにか、素晴らしく

我々を魅了するのであろうかと!

私もまた、最近まで香りに疎く、その重要性を知りませんでした。

 しかし、最近、ついに手に入れたのでございます。

そのナルドの香油を―

 さて、その香りをワインソムリエの如く表現してみせませう(笑)。

―広大なる大地を翔ける聖なる獣の、その息吹と共に奮える命の木の雫を思わせる、芳醇なる香り―

 はい。では今のこの表現を、我々日本人が正直に表現するとこうなる、という、すんばらしく的確に一言で片付けた方がいらっしゃいました。
 こうです。


―外で飼われてる犬の臭い―

…まあ、そうなんですな。要するに土臭い、泥臭い、獣臭いってことです(笑)。
 姉、みけーらは、その昔、アラブ人の絨毯商人の所で働いていた経験から、彼等の感覚が分かるので、ナルドの香りを初めて嗅いだ時も、懐かしいと思ったそうで。

 そこで考えたのです。良い香りって何だろう…。

 乾燥地帯に住む中近東の方々も、花の香りは大好きだそうで

特に薔薇なんかには、物凄く執着しているみたいですね。

 けれど、スパイクナード(ナルドの香油)の様な香りも彼等にとっては芳しいものらしい。

 そこで、想像してみました。乾燥した大地に牛や馬が、家族と同じ様に暮らしている。

 石や木を燃やす匂い、山羊や羊の柔らかい肌触り。
それらが母親の笑顔や兄弟の笑い声、父親の暖かい手。おばあちゃんの昔話等と一緒に、良き思い出として記憶されている。
 何処かで土の匂いや動物の匂いを嗅いだ時、ふと心が和み、優しい気持ちになったりする。

 それらはその人にとって、良い香りのはずです。

人工物に囲まれて生活する今の私達には、自然の香りはもしかしたら、不潔なものに写るのかもしれないけれど

ナルドの香油には、太古の息吹が封印されているのかもしれない、と思うのです。




ブログを書いた牧師様。
ほんまもんのナルドに出会った時

どうか幻滅しないでね(笑)。

ゼルダアップしました〜

 18回目の連載になります。まだまだ続きまっす(笑)!

小説用ブログ
mblg.tv
前の記事へ 次の記事へ