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ゼルダアップです〜

 いや〜参ったね(笑)。一ヶ月以上も間が開いちゃいましたよ。
 暇潰しにでも読んでちょ〜!

小説用ブログ

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ヌース〜イデアを観る力

 実はしばらくブログ更新を控えようかなあ…と思っておりました。何せやることが多くて、小説も放置プレイだし(笑)。
 
 昨日、サバトの為に邪教の館…じゃなくて、師匠の学院へ行って来ました。はい、もしかしなくても銀座です(笑)←これで笑える人は…( ̄ー ̄)。
 いつもながら、師匠の講義は大変面白いです。昨日は新プラトン主義の代表者、プロティノスの著作、「エネアデス」より、”美”について。
 人は何故美に魅せられるのか、どのような時に美を感じるのか、そもそも美とは何なのかに迫りました。…時間切れで続きは次回になっちゃいましたが…。

 その講義の中で、ひとつ気づいたことがありまして、ふうさんへのメールでそのことを書いたのですが、ブログでも公開した方が良いのでは、と考えました。
 
 恐らく、反論異論あるかと思いますが、重要なことだと思いますので、ふうさんへのメールから抜粋しつつ、記載しようと思います。

 元々は、自分のパーソナリティに対する解析を行っているふうさんへのコメントでした。以下、抜粋します。

 (前略)私も自分に対しかなりカッコイイイメージを持っていました(笑)。でも本来の自分はどちらかと言えば吉本系(笑)。絶対にモテるタイプではないし、ふてぶてしいし、可愛いげ無いし、女として自慢出来るとこなんざ何もありゃしまへん。
 けれど反面、あらゆる所に”美”を発見する才能があり(師匠によると、”美”を発見するには修行が必要なんだそう)、芸術を愛で、その人の魂をダイレクトに捉える(見抜く)力がありました。
 ふうさんが理想とするふうさんは、既にふうさんの中にあるんですよ。その時ふうさんはイデアを観ている。ヌースを捉えているんですね。何故なら人は持っていないものは認識出来ないからなんだそうです。

 人は、イデアから外れたものに出会うと、それを醜いと判断するんだそうです。だからふうさんが”本当の自分”と信じている嫌いな自分はふうさんにとってはイデアから外れていると感じている自分であり、それも確かにふうさんの一部には違いはないけれど、だからと言ってふうさんが”演じている”と感じている理想の自分を自分ではないと思う必要もないんですよ。それも確かに本来のふうさんなんです。何故ならさっき記した様に、自分の中に無いものは人は認識出来ないからです。

 だから、相手は自分の鏡と表現されるんですね。イデアを観る力(英知=ヌース)を持っている人々は、そこに自分の中にある”美”すなわち神を観て喜びを感じるのです。それを良しとする時、人はそこに神を見出だしている。つまり対象に”美”があるのではなく、自分の中の良き美しきものを写し出して、想起しているのです。

 私の話していることが伝わっているかしら?(笑)

 ヌースが出たついでに。昨日のサバトはまさに”美”についてのお話だったのですが、そこで私は半田さんが提唱しているヌーソロジーなるものについて学んでいると、何故あれ程混乱してしまうのかが分かりました。

 翻訳の誤りを考慮に入れていない、という盲点がありそうということです。

 デカルト以降、イデア論は徹底的に無視される様になっていたため、”ヌース”という言葉を翻訳する際、唯物主義たけなわの19世紀ドイツで学んだ、当時の日本の翻訳者達は、古代思想や精神世界の理解や知性といったものに、次元階層があることに気づかず、人間次元の理解、知性(分析、解析、分類、計算、知識。つまりホドの領域)と、高次元世界の知性(イデア、英知。つまりティフェレト以上)とを一緒くたにして翻訳した為、読み手が理解出来ない仕上がりになってしまっているらしいのです。

 ギリシャ語に精通し、原本でプラトンやプロティノスを読んでいる師匠はその誤りに気づき、ヌースの誤訳”知性”を”英知”とすべきと話していました。知性と英知を区別すべきだと。

 半田さんは恐らく、そのOcotとの出会いの中で、ヌースを獲得しイデアを観ていたのは間違いありません。私が震えるほど感動し、夢中になったのは彼の文脈の中にそのイデアの片鱗を観たからに違いありません。
 しかし、Ocot情報を理解するために古代哲学を独学で学び、著作を読み進めた彼は、そこに翻訳者達が理解出来なかった知識の階層があることの重要性、その為の誤訳や理解のズレが大問題であることに気づかなかったのでしょう。

 ヌーソロジーに数学を持ち込む人々は、自分達がその中にイデアを発見し、喜びに感動している(それがヌース)、それこそが重要なのに、数式や数の関わりばかりに気を取られ、いつの間にか”ヌースとは数の理解”になってしまい、科学と同じ次元に落とし込まれてしまっているのに気づいていない気がします。
 何故なら、人の意識の有様や働きを計算や数式に当て嵌める行為は、ホドの領域での働きであり、より高い次元の働きを組み込むことは不可能だからです。広大な海を井戸の中に入れようとするのと同じことです。

 私やふうさんが混乱したのは、恐らくこの辺りが原因なんだと思います(以上抜粋+補足)。


 私が一年程前に夢中になって取り組んでいたヌーソロジーなるものは、人間の新しい方向性、新しい意識の開拓を旗印にしていると私は考えていました。
 人間存在とは何か?神とは何か?それはとてもワクワクする様な探求の旅でもありました。怪しいオカルトでもなければ、既存の科学でもない、最も古く、最も新しい知性。私がヌーソロジーに感じたのはそういったイメージでした。

 ところがいつの間にかその体系には数式ばかりが並び(数式が悪いのではない)、それらを理解しようと生み出された数字の翻訳モドキの意味不明な言葉や表現ばかりが溢れるようになり、私はついて行くことが出来なくなってしまいました。

 そして、決定的な出来事が起こり、私はヌーソロジーを手放すことになったのです。

 昨日、師匠の講義で、私が何に居心地の悪さを感じていたのかがはっきりしました。そして恐らく、ヌーソロジストを自認する人々が気づいていない問題が分かった様な気がします。

 現代人の世界観と、古代人の世界観のギャップをもっと真剣に埋める努力が必要だと感じます。

 ヌースとは、イデアを観る力です。人間の知性のことではない。

 美=神。美を追究していけば、神に至る。何故なら人は”神”の片鱗に触れると”美”を感じるからだといいます。

 遠い昔、5歳の子供だった私は、ある音楽に”美”を見い出して感動し、自我の発露を体験しました。
 以来、音楽が私の人生を救って来ました。私が死にそうになると、彼等は人の姿を取って現れ、私を引っ張ってくれました。

 音楽は、私にとっての”美”。私を神に至らせる道だったのです。

カオスなパラレルワールド(笑)

 数日前、朝方に変な夢を見た。
 なんだかよく解らないのに、やたらはっきりとした夢。雰囲気は珍しく和風で、何処ぞの館で忙しくしていた。
 時間が来て、誰かに何かを渡された。

法螺貝である(笑)。

よく山伏が吹いているアレである。

―これを吹けとな?

 どうやら私の御役目みたいなので、仕方なく思い切り吹いた。

ぶお〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!

 低く、こもった音の中にまるで笙の様な音が重なって響いた。
 直後、お化けが出現(笑)。なのに、やたら人工的でちっとも怖くない。
 妹せっしーが大喜びで見に走っていた(笑)。

 急に目が覚めて時計を見る。AM5:27。トイレへ行って再び床につく―。

 やがて起床の時間が来て、起きぬけの姉みけーらが開口一番こう言った。

「今朝さあ、なんか変だったんだよ。5:30頃突然何かに叩き起こされたんだよ。びっくりして飛び起きちゃったよ。」
「…。」

 咄嗟に自分が法螺貝吹いたからだと思った…(笑)。
 みけは感度がいいので、時々テレパシーの受信をしているらしい。なので、こんなことが起きても不思議じゃない。
 にしても自分、何で法螺貝なんぞ吹く羽目に?よく分からないが何かのお知らせかもしれない。
 その日、ツイッターでLaxmiさんがご自宅の敷地内で、金色と緑色の蛇と遭遇したそうだ。吉兆だと喜んでらした。
 何となく、私の法螺貝と無関係でなさそうな気がした。

 さて吉兆と言えば船場吉兆ではなく(笑)、囁き女将でもなくおちんさん(笑)。実は私、そのおちんさんが、ブログを通じて出しておられた”宿題”に挑戦したのだが、その”採点”で私はめでたくおちんさんがお持ちのノート、”オカマですのーと”に名前を書き込まれるという栄誉に与りました(笑)。
 オカマですのーととは、これに名前を書かれた者は、将来オカマになるか、オカマとだけしか関わっていけなくなるという、それはそれは恐ろしかノートだす(笑)。
 私はそのノートの”夢が叶う編”に名前を書き込まれてしまいました(笑)。そして、そこに私に関する有り難い予言が書かれておりましたのです。
 せっかくですので、抜粋させて頂きます。

おちんさんの予言(オカマですのーとより(笑)。

 さて、ある日の、埼玉、だったよね?埼玉の街。歌を鼻で唄いながら、交通量の多い交差点で信号待ちしてると、排気ガスいっぱい吸い込んじゃって鼻がむせて鼻の唄が途切れる。
それでも頑張って唄い続けていると、ポンポンっと、背後から肩を叩かれ、振り向くと、そこにはスティービーワンダーとベットミドラーを足して8で割ったような強面のオカマがマイクもって立ってる。
金のマイクと銀のマイク…と、いうのは別なページで、このぺージでは、えっと、「お嬢さんは心底お歌がお好きなのですわね。つきましてはここじゃなくて、こっちで一緒に唄いましょう」と、埼玉県おかまNHKのど自慢大会に誘われる。おかまじゃないが、唄ってしまう。と、即優勝。自信をつかみとる。
そして、その勢いで、かつて銀座にあった銀巴里というシャンソン喫茶の埼玉版を作り、店の名を大宮の大巴里、上尾の上巴里、さいたま市のさい巴里、えっと、それから朝霞の朝巴里、川越の川巴里。という風に、どんどん支店を作っていって、しまいにゃ埼玉で文句あっかいなかっぺよ巴里のど自慢大会を主催するまでになりますよーに、というお祈りページです。歌、続けることだよ。続けないと、エリニンおちんが9月に埼玉さつっこむよ。では、またね。おちん。

 …(T^T)うるうる…。おちんさん、素敵な予言をありがとう。例えどんなに不毛でも、私は”あの人”への思いを抱えて歌い続けるよ…。
 しかし、私はおちんさんの素敵な予言の中に一つ、パラレルワールドへの扉を発見してしまった!
…ので、今回はそのパラレルワールドの扉を開いちゃお〜かな〜?っと(笑)。

おちんさんの予言/パラレルワールド編(笑)。

さて、ある日の、埼玉、だったよね?埼玉の街。歌を鼻で唄いながら、交通量の多い交差点で信号待ちしてると、排気ガスいっぱい吸い込んじゃって鼻がむせて鼻の唄が途切れる。
それでも頑張って唄い続けていると、ポンポンっと、背後から肩を叩かれ、振り向くと、そこにはスティービーワンダーとベットミドラーを足して8で割ったような強面のオカマがマイクもって立ってる。
”金のマイクと銀のマイク。あーたはどっちのマイクが欲しい〜?”オカマは聞きますた。一瞬考えた後、ミスランディアはこう叫びますた。

「両方下さい!」

 こんなコルベ神父(※)な答えを出したミスランディアに、そのベット・ミドラーとスティービー・ワンダーを足して8で割ったやうな恐面オカマは、白目ひん剥いて怒鳴りますた。

「アンタね、高くつくよ!」

 次の瞬間!オカマの持っていた、金のマイクと銀のマイクが巨大化しながら変身!銀のマイクは真っすぐ伸びに伸び上がって、その真の姿魔王マーラ大先生に!

「ぎょえぇぇぇっ!」

 オカマが悲鳴を上げてうずくまると、今度は金のマイクが分身の術でこれまた巨大化しながら変身!なんと!フグリ玉蔵師匠が現れますた。フグリ師匠両手にイヌフグリ!(笑)。
 そして世界はそのままラスボス戦へと突入し、カオスなエンディングに!(笑)

 オカマはとっとと逃げ出してしまいますた。そう、金のマイクと銀のマイクはその昔、オカマが切り離した…(以下自粛)。
♪♪ちゃんちゃん!

 物凄いドグラマグラなパラレルワールドでした…(―ω―;)。まあ、それはそれで楽しそうではあります(何処が?)
 おちんさん、素敵な予言ありがとうですぅ〜!

 PS/あ、そうだ。そういや魔王マーラ大先生の超リアルバージョンイラストを某さんからリクエストされてたっけ?
 んじゃあ、ついでにフグリ玉蔵師匠搭載したヤツをひとつ…d(――;)☆\(―ー)

※)マキシミリアノ・コルベ神父。ポーランドの聖人。幼少期に聖母マリアの出現を受け、マリアに”白い王冠(純潔)と赤い王冠(殉教)のどちらを望むか?”と問われ、”両方を下さい。”と答えたと言われる。後にアウシュビッツ強制収容所にて殉教。マスコミの生みの親。
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