実はしばらくブログ更新を控えようかなあ…と思っておりました。何せやることが多くて、小説も放置プレイだし(笑)。
昨日、サバトの為に邪教の館…じゃなくて、師匠の学院へ行って来ました。はい、もしかしなくても銀座です(笑)←これで笑える人は…( ̄ー ̄)。
いつもながら、師匠の講義は大変面白いです。昨日は新プラトン主義の代表者、プロティノスの著作、「エネアデス」より、”美”について。
人は何故美に魅せられるのか、どのような時に美を感じるのか、そもそも美とは何なのかに迫りました。…時間切れで続きは次回になっちゃいましたが…。
その講義の中で、ひとつ気づいたことがありまして、ふうさんへのメールでそのことを書いたのですが、ブログでも公開した方が良いのでは、と考えました。
恐らく、反論異論あるかと思いますが、重要なことだと思いますので、ふうさんへのメールから抜粋しつつ、記載しようと思います。
元々は、自分のパーソナリティに対する解析を行っているふうさんへのコメントでした。以下、抜粋します。
(前略)私も自分に対しかなりカッコイイイメージを持っていました(笑)。でも本来の自分はどちらかと言えば吉本系(笑)。絶対にモテるタイプではないし、ふてぶてしいし、可愛いげ無いし、女として自慢出来るとこなんざ何もありゃしまへん。
けれど反面、あらゆる所に”美”を発見する才能があり(師匠によると、”美”を発見するには修行が必要なんだそう)、芸術を愛で、その人の魂をダイレクトに捉える(見抜く)力がありました。
ふうさんが理想とするふうさんは、既にふうさんの中にあるんですよ。その時ふうさんはイデアを観ている。ヌースを捉えているんですね。何故なら人は持っていないものは認識出来ないからなんだそうです。
人は、イデアから外れたものに出会うと、それを醜いと判断するんだそうです。だからふうさんが”本当の自分”と信じている嫌いな自分はふうさんにとってはイデアから外れていると感じている自分であり、それも確かにふうさんの一部には違いはないけれど、だからと言ってふうさんが”演じている”と感じている理想の自分を自分ではないと思う必要もないんですよ。それも確かに本来のふうさんなんです。何故ならさっき記した様に、自分の中に無いものは人は認識出来ないからです。
だから、相手は自分の鏡と表現されるんですね。イデアを観る力(英知=ヌース)を持っている人々は、そこに自分の中にある”美”すなわち神を観て喜びを感じるのです。それを良しとする時、人はそこに神を見出だしている。つまり対象に”美”があるのではなく、自分の中の良き美しきものを写し出して、想起しているのです。
私の話していることが伝わっているかしら?(笑)
ヌースが出たついでに。昨日のサバトはまさに”美”についてのお話だったのですが、そこで私は半田さんが提唱しているヌーソロジーなるものについて学んでいると、何故あれ程混乱してしまうのかが分かりました。
翻訳の誤りを考慮に入れていない、という盲点がありそうということです。
デカルト以降、イデア論は徹底的に無視される様になっていたため、”ヌース”という言葉を翻訳する際、唯物主義たけなわの19世紀ドイツで学んだ、当時の日本の翻訳者達は、古代思想や精神世界の理解や知性といったものに、次元階層があることに気づかず、人間次元の理解、知性(分析、解析、分類、計算、知識。つまりホドの領域)と、高次元世界の知性(イデア、英知。つまりティフェレト以上)とを一緒くたにして翻訳した為、読み手が理解出来ない仕上がりになってしまっているらしいのです。
ギリシャ語に精通し、原本でプラトンやプロティノスを読んでいる師匠はその誤りに気づき、ヌースの誤訳”知性”を”英知”とすべきと話していました。知性と英知を区別すべきだと。
半田さんは恐らく、そのOcotとの出会いの中で、ヌースを獲得しイデアを観ていたのは間違いありません。私が震えるほど感動し、夢中になったのは彼の文脈の中にそのイデアの片鱗を観たからに違いありません。
しかし、Ocot情報を理解するために古代哲学を独学で学び、著作を読み進めた彼は、そこに翻訳者達が理解出来なかった知識の階層があることの重要性、その為の誤訳や理解のズレが大問題であることに気づかなかったのでしょう。
ヌーソロジーに数学を持ち込む人々は、自分達がその中にイデアを発見し、喜びに感動している(それがヌース)、それこそが重要なのに、数式や数の関わりばかりに気を取られ、いつの間にか”ヌースとは数の理解”になってしまい、科学と同じ次元に落とし込まれてしまっているのに気づいていない気がします。
何故なら、人の意識の有様や働きを計算や数式に当て嵌める行為は、ホドの領域での働きであり、より高い次元の働きを組み込むことは不可能だからです。広大な海を井戸の中に入れようとするのと同じことです。
私やふうさんが混乱したのは、恐らくこの辺りが原因なんだと思います(以上抜粋+補足)。
私が一年程前に夢中になって取り組んでいたヌーソロジーなるものは、人間の新しい方向性、新しい意識の開拓を旗印にしていると私は考えていました。
人間存在とは何か?神とは何か?それはとてもワクワクする様な探求の旅でもありました。怪しいオカルトでもなければ、既存の科学でもない、最も古く、最も新しい知性。私がヌーソロジーに感じたのはそういったイメージでした。
ところがいつの間にかその体系には数式ばかりが並び(数式が悪いのではない)、それらを理解しようと生み出された数字の翻訳モドキの意味不明な言葉や表現ばかりが溢れるようになり、私はついて行くことが出来なくなってしまいました。
そして、決定的な出来事が起こり、私はヌーソロジーを手放すことになったのです。
昨日、師匠の講義で、私が何に居心地の悪さを感じていたのかがはっきりしました。そして恐らく、ヌーソロジストを自認する人々が気づいていない問題が分かった様な気がします。
現代人の世界観と、古代人の世界観のギャップをもっと真剣に埋める努力が必要だと感じます。
ヌースとは、イデアを観る力です。人間の知性のことではない。
美=神。美を追究していけば、神に至る。何故なら人は”神”の片鱗に触れると”美”を感じるからだといいます。
遠い昔、5歳の子供だった私は、ある音楽に”美”を見い出して感動し、自我の発露を体験しました。
以来、音楽が私の人生を救って来ました。私が死にそうになると、彼等は人の姿を取って現れ、私を引っ張ってくれました。
音楽は、私にとっての”美”。私を神に至らせる道だったのです。