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最近確信したこと

成長することは嬉しいことだけれど

辛い別れがあったりするよね。
青春時代が輝かしいのは、もう二度と無い一瞬の美しさがあるからなんだろうなぁ。

最近、ちょっと気づいたことがある。というか、改めて確信したと言うべきか…。

実は今朝、独りでつらつら考えていて、突然気づいてしまった。

きっかけは、某コミュニティにてふうさんが全員に公開した日記の内容。
はっきり言ってしまうと、早い話がまあヌーソロジーなるものについての問題点をハーイ\(^o^)/しちゃったんだなこりゃ(笑)。

原爆投下とも言えるこの発言(笑)。私は"言っちゃいますか?"って感じで読ませて頂いたのだが、さすがにふうさん。決して乱暴な物言いをせず、淡々と丁寧な語り口で綴ってらっしゃいました(笑)。

んで、それに対する反応も、丁寧で真面目だな〜みんな…っていうのが私の率直な感想でした。
それで、反応の内容も皆同じことを感じ、何とも言えないモヤモヤを抱えていたらしく、ふうさんに同意する意見が続々上がっていました。そして、私はそこでもある意味ヌーソロジーの持つ最大の問題点が露呈されているのを見た気がました。

ヌーソロジーの問題点。

1.名称が、ギリシャ語として甚だしく間違えている。

2.ふうさんのご指摘の様に、どっ散らかったままの情報が野放し。

3.言い出しっぺの半田さんが、この手の話をスルー(これが最大の問題点と思われ)

そこで私はふうさんに個人的にメッサージュを送り、

"いいんでね?ほっとけば。ぬーそろじぃってばにんげんさまのりろんじゃけぇ、カミサマんとこさいきてぇやつはぼっちであるくみちさいくんだべよぉ。わけわかんないままかおすのままでええとはんちゃんばいっとるしぃ、わたしらはじふんだけでいくしかねぇんだばよぉ〜。"

と伝えたのでした(笑)。

んで、その話から心の中で色々考え、私達はそもそも何を求めてこんなに苦しんでいるんだ?と、改めて考えていたのでした。
最近何となく思っていたことは、人は真に求めるものは得られない様に出来ているのでは?ということ。それが人生の目的だから、なかなか手に入らなくて当然。手に入った時点でGameOver。そう思って気がついた。

手に入ったら人生おしまい。もしくは新たな学びへ移行…これは何を意味するのだ?

この世はGameとはよく聞く言葉です。ハラハラドキドキのGame。奪うか奪われるか、食うか食われるか。この世界に生まれ落ちた者達は、皆Gameの参加者。だから、クリアするまで終わらない。

もうやめよう!こんなスカポンチンな世界!穏やかで幸せな神の世界へ行くのだ!

そう言って、色々なスピリチュアル情報を仕入れたり、宇宙人の来訪を信じたり、空中啓挙を期待したり皆さんそれぞれ正しいと感じる道を模索している。
そんなスピリチュアルな情報の中に、よく知られているこんな考え方。

ー人間の意識進化。

これから私達は人間という次元を上昇させてヒトを超え、新たな存在となるーという考え方だ。
この思想の根底には、肉体に縛られているが故に、私達は餓えや欲望に悩まされ、やがては争い世界を滅ぼしてしまうという、一種の原罪意識があるんでないかと思う。
んで、そんな感受性の強い方々が、肉体から解放されるべく様々な哲学や思想を作り出し、ヌーソロジーもどうやらそういったものと同じ様にして生まれて来たような気がする。
そういう訳で、その手の思想類は皆人間進化を目指している訳だが、どーにもこーにも上手く行かなかったりする。それは何故か。

かくいう私もそんな方々と同じ様に、人間の次元を出て解放されたいのだ。カバラーは人間がこの世から解放され、神(一なるもの)帰るための地図である。カバラーなんぞやっているのだから、当然私も一なるものに帰りたいのだ。

なのに、何故いつまでも辛いのだろう。

そんなことを考えていてハタと府に落ちてしまった。

なんだかんだ言いながらも、私達は縛られている。
宇宙の真理を追求したいという欲求さえも、執着なのだ。
つまり、それもGame。しかも人が参加するのは一つのGameとは限らず、色んなGameに同時進行している。そしてその中にはもうやめにしたいGameもある訳だ。つまりこんな風に。

失恋Gameはやめたい。でも、金持ちGameは続けていたい。

やめたいGameと続けたいGame。皆が争って三つ巴(笑)。その摩擦から苦しみが生まれるのではないかしら?

本当にこの世から解放されたければGameそのものをやめなければならない。そのGameをやめる方法がカバラーであったり、哲学であったりするのじゃないだろうか。

人間の意識から離脱する方法。

それは実は一人一人違った道が与えられていると考えられ、ある程度の他人と共有出来る次元を出ると、そこからは独りで行かなくてはならない。GameOverの後はひとりぼっちなのだ。

人は無意識で孤独になることを恐れ、だからこそいつまでもGameにこだわってしまうのではないだろうか。
私のカバラーの先生は、それをこう話して下さった。

"ティフェレトまでは師匠が導ける。そこから先は、自身の女神に導いてもらうのだ"

だからふと思った。ヌーソロジーは人間の為の意識科学なのだから、人間の領域でぐるぐるするのは当然で、それでもいいじゃない。

Gameが楽しければ続ければいいし、別に悪いことではない。しかし、もしも先に進みたければ独りの道を怖がってはならない。
そして、その孤独の道を照らすものこそが…

"歓喜"

なのだ。

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