きっと、それは

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秋陣営の霜の色 鳴きゆく雁の数見せて

七日町方面に歩く。すると昔の雰囲気を残したままの通りである。白い漆喰塗りの蔵造りの家に木造の門構えが立派な家。そんな一軒で昼食を食べる。明治時代からの海産物問屋らしい。郷土料理は自分の舌には物珍しい。
骨董屋を覗く。細身で中々状態の良い煙管が気になったが煙草盆とセットでないと売らないという。残念だ。

日差しが厳しい。北にいるというのに東京と変わらない。蝉の声の集中砲火、だけでは済まずに偶に本体が特攻をかけて来る。

盆も過ぎたというのに目指すのは寺。幕末の東軍と新選組三番隊組長である斎藤一が眠るという。
聞けば賊軍の死体は埋葬も許されず放置されていたそうだ。それを密かに運び込んだのがこの寺だと。官軍の命令とはいえ地元の人には良い迷惑だったろう。

阿弥陀寺の名の通り、昔は大きな阿弥陀様の像があったらしいがこの前の戦争の際に供出されてしまったとかで今は台座が残るのみである。その横に供養塔がある。数百柱の東軍が祀られているらしい。その横に他の墓からも離れてポツンとあるのが斎藤一の墓だ。

斎藤一と妻の高尾が亡くなって数年後に建てられたらしいこの墓は、縁も所縁もなかったはずの会津に骨を埋めたいという斎藤一の遺志で出来たという。名前も何度も変えたが「藤田五郎」が墓にも刻まれる最後の名前になった。
小さな墓で、墓前の花も暑さで萎れてしまっている。彼らがここに来た当時もこの暑い季節だったろう。

今まで懸けてきたものが徹底的に壊れてしまっても、終わってしまったことの余剰としてだけ過ごすには、彼のこれから生きていく年月は長かった。彼は絶望するには若すぎた。

仲間の多くが見なかった明治を過ごした。大正の空気もかいだ。それでもやはり、ここで本当は終わっていたという気持ちが、ここに自分の墓の姿をみせたのだろうか。言葉を多く語らなかった人の思いは知れないが。

…はいちょっとお話ちっくにちょっと真面目に書きました。いやー、不真面目な気持ちで斎藤さんの墓行ったからかこの次の日から何かの呪いのように脛が痛くてね!そんなに歩いてないのに今まで痛くなったこともない箇所が、しかも帰ってきても2週間くらい治らなかったという。すいません、ちょっと真面目に書いたんで許して下さい斎藤さん。

しかしこの人本当すごいと思います。自分の知り合い殆ど死んで、今まで必死にやってきた剣術も必要とされない世になって、過去はあまりに重くて濃くて、その過去のおかげでそこらの役人から国のトップにまで恨みを買ってる重罪人で、素性がばれたらいつ殺されるかもわからない絶望するしかない状況のこの人この時せいぜい25歳とかなんだ。京都で色々やってた時なんて下手したら今の私より年下だもの。
でもこの人は生きるんだもんな。生きるのが一番大変だと本当思います。で、ちゃんと生きて板橋の近藤さんと土方さんの墓建てて「斎藤」の名前で署名したんだよね?これ本当にこの斎藤さんか微妙だけど信じてます。

真面目に書いたら今日は斎藤さんだけで終了。私は新選組では土方さんの次にこの人が好きです。
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