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あの震災から2年4か月です

みなさま、ごきげんやう。仙台は27℃過ごしやすいです。




2年4か月前の今日、実質震度7(七郷設置震度計)の揺れが襲いました。
今までに経験のない激しい横揺れは3分も続き、ライフラインは止まりました。サバイバル生活の始まりです。





幸い、水は一時濁ったものの飲めるようになりました。だから生き延びられたのです。
電気は遅く2週間はつかなかったと記憶しています。ガスに至っては27日間ストップ。その間、風呂は入っていません。天気の良い日に天日で温めたペットボトルの水で〔青空シャンプー〕したのです。
何も楽しいことがないから、キャーキャーいいながら楽しかったのです。




生き延びることは大変で必死でした。自分が、というより家族を欠かすことなく安全に守るということが大変だったのです。

青空スーパーマーケットも何もかも高かったけれど、生き延びる為に必死で買い物しました。
そして買い占めたい気持ちはあっても、見知らぬ隣にいるお客さんの為に買い控えもしました。





美しいことばかりじゃないといいますか。4キロ先から雨の中両手一杯に食糧を調達してトボトボ歩いてくると、車が止まり男2人に危うく略奪されそうになったり。ホントの話ですよ。

ガソリンが手に入らなくて、ガススタで店員に罵声を浴びせている男がいたり。コンビニのATMは悉く破壊されたり。
無人になった町の電線やケーブルを盗みに他県から中国人がきたり。





有り難かったのは震災3日後に灯油を買いに並んだガススタで〔中部電力〕〔九州電力〕の車が次々、優先的に給油を受けては、また出動する様子を見た時です。



「あー、宮城県は取り残されていないんだ」あの他県ナンバープレートを見た時の感動と有り難みは一生忘れません。
過酷な状況で寝食忘れて尽力下さった方々に感謝の気持ちで一杯です。
本当にありがとうございましたm(_ _)m




写真は現在の荒浜です。自宅から車で15分位の場所です。基礎が残っていますが、ここには住宅が建ち並んでいました。人々はここで生きていたのです。

松林の向こうは海。牙を剥いた。防風林はまばら。根こそぎ2キロ先まで流れ着いているのを震災15日後に見て驚いた。


犠牲者の帰りを待つ〔幸せの黄色いハンカチ〕がたっくさん、何枚も至る所にたなびいていて。悲しすぎて胸がつまり、どうしてもカメラを向けることはできませんでした。スミマセン。
今も待っている人々がいるということを知って下さい。




添削していると九州の方は「自分の中で震災は終わった」とあるんですが、正直それが他県の方の気持ちかと思います。
だから伝えるんです。たがら書き続けます。
私たちのことを忘れないで下さい。
絶対にまたやってくる。そう思って備えて下さい。家族と避難場所を決めておいて下さい。


ありがとうございました。
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