「あれ、もう帰るの?」
不意に背後から掛けられた言葉に、びくり、肩が上がった。
「は、はい。もう仕事が片付いたのでっ」
正直、この人は苦手だ。
会社の上司で無ければ、絶対に関わろうとはしないだろう。
不運にも残業で、他に誰も居なくなってしまい、2人っきりの今、気付かれない内に、こっそり帰ってしまおうと思ったのに。
「ふ〜ん。仕事、終わったんだ」
厭味を含めるような言い方に、無意識に足が、ずりっと後退る。
今、迂闊に答えてはいけない。
もの凄く嫌な予感がする。
「ははっ。あの・・・」
引き攣るような笑みを浮かべる僕の正面で、にっこりと最上級とも取れる笑顔を浮かべた上司は。
「そっか、そっか。じゃあ、ちょっと手伝ってもらおうかな?」
こてん、小首を傾げながら、至極、残酷な言葉を吐いた。
ボク、モウ、タイムカード、オシタンデスケド・・・
なんて、反論できる訳は無く。
「・・・はい」
情けない返事をするしかなかった。
「じゃあ、コーヒー入れてきてよ」
「・・・はい」
僕は渋々、部屋の隅に設置されたコーヒーメーカーに向かう。
手伝い、とは言っても、平社員の僕が課長の仕事の即戦力になれる訳は無く。
出来る事と言ったら、渡された書類をパソコンに入力するとか、書類のホッチキス止めとか、計算とか、簡単な物でしかない。
課長には課長だけの仕事があるし、平社員の僕が知らされていない物だってある。
現に頼まれた仕事がコーヒー出しとか。
何で僕、残されたんだろう。
しかも、サービス残業で。
コポコポと音を立てながら、抽出されていくコーヒーを見つめながら、そんな事を、つらつらと考えてみる。
が、答えなんて出てくるはずもなく、コーヒーが注がれ終わり、零してしまわないよう慎重に、課長の席まで持っていった。
「お待たせしました」
「本当だよ、遅い」
「・・・すみません」
謝りながら、何で、僕が、そんな事、言われなきゃならないんだろう?と考えていた。
明らかにコーヒーメーカーのセイじゃないのか。
そうは思っていても口に出せはしない。
「ま、いいや。取り敢えず、そこ座って」
「はぁ・・・失礼します」
曖昧に生返事をしながら、指定された課長の隣の席に腰掛ける。
椅子が、ぎしり、沈んだ音がした。
課長は、そんな俺を見る事は無く、目線はパソコンに向けたまま。
「何か歌って」
課長との間にある空間を遮断したくなる程の無茶振りを放ってきた。
「えっ!?無理ですよ!何でですか!?」
「無理とか聞いてない。何でも良いからさ〜」
「音痴なんでっ!!」
「そんなの、聞いてみなきゃわかんないでしょ」
「い、嫌ですっ!!」
顔面蒼白で、頭をぶんぶん振りながら、必死に拒否を示す僕を、課長は一瞥した後、直ぐにパソコンに向き直り。
「強情だな〜、嫌とか・・・」
「無理です!!本当、勘弁して下さい・・・」
弱々しく答える僕にクスクスと笑みを零す課長に泣きたくなる。
「そっか、そっか。そんなに嫌か〜」
「・・・あの?」
何だか笑っているのに不穏な空気を感じるのは気のせいだろうか、と疑問を、ぽろり、口から零すと。
「うん、じゃあ言い方を変えよう」
「・・・え」
くるり、体ごと、戸惑う僕の方を向いた課長は威圧感満載の極上な笑みを見せ。
「課長命令だ。歌え」
低い声で告げた。
「うん、やる気が下がる音痴な歌をありがとう」
「・・・いえ」
大声を出していた訳では無いのに緊張で、ぜぇぜぇと息が上がっている僕の肩を、ぽんっ、と叩いた課長から辛辣な言葉を浴びせられた。
因みに、僕が選んだ歌は、某、青い猫型ロボットが登場するアニメの主題歌だ。
余りの無茶振りに、流行りの歌なんて浮かばなかったし、何より、主人公がガキ大将に虐められている姿が今の僕にピッタリと当てはまったからだ。
あぁ、僕も、あの猫型ロボットが欲しい。
今、切実に欲しい。
「さてと、仕事も大方、片付いたし、帰るかな」
ん〜!と椅子に座ったまま、腕を上に伸ばした課長は、待ち望んでいた言葉を口にした。
「はい!」
漸く解放される!と喜んだ僕が腰を上げようとすると。
「あ、ちょっと待って」
課長は何枚か書類を手に取り、最終チェックをし始めた。
立ち上がるタイミングを逃した僕も座ったまま、何の気無しに課長を見てみた。
俯き気味で真剣に書類をチェックしている課長は、いつもより幼く見える気がした。
いつも茶化してくる時とは違う課長の顔。
そうやって真剣な顔で黙ってると綺麗なのにな〜と、ぼんやりと思う。
まぁ、絶対に言わないけど。
「よし、じゃあ帰るか」
数分後、ぱっと上げられた顔に、つい、顔を逸らす。
見ていた事がバレたら、何を言われるか、わかったもんじゃない。
「はい!帰りましょう!!」
誤魔化すように勢いよく立ち上がると、椅子が、がたり、大きな音を立てた。
そんな僕を尻目に、課長は静かに立ち上がると。
「そんなに帰りたかった?」
「はっ・・・いやっ、課長が早く終わって良かったな〜と!」
「ふぅん?」
危ない、危ない。
はい!って元気良く答えるところだった。
そんな返事をした日には、次の日から仕事が5倍くらい増えてそうだ。
恐ろしい。
きっと課長なら平然と増やしてくるに違いない。
「さ、さぁ、帰りましょうかね!?」
ここは、さっさと帰るに限る。
扉に向かおうと足を踏み出した俺の背後から。
「付き合ってもらったし、送るよ」
恐ろしい言葉が聞こえてきた。
「え?」
聞き間違いだよな。
うん、きっとそう。
そう願って、課長に向き直りながら、聞き直した僕の耳に飛び込んできたのは。
「どれだけ耳が悪いのかな?送るって言ったんだよ」
聞いてなかったとは言わせねぇぞ?という言葉が聞こえてきそうな程、冷たく口端を上げながら、課長は問題発言を繰り返した。
「いっ、いえっ!!そんな申し訳無い事、課長にしてもらう訳にはっ」
こうなっては知らない振りは出来ないと、手と首を、ぶんぶんと振り、遠慮を示す。
と。
ばしり、振っている手首を掴まれ、ぐぐっと力を込められた。
「・・・心遣いって言葉、知ってる?」
「すみませんっ!有り難く送って頂きます!!」
痛い!痛い!!
鬱血する!!
手を離して欲しくて叫ぶように、そう言うと。
「そ?何だ、遠慮してるのかと思ったよ」
激しく同意したい!と本当は言ってしまいたい気持ちを、ぐっと堪え。
「そんなっ!嬉しいです!ありがとうございます!!」
「良かった。断られたら、どうしてやろうかと」
ははっと歪んだ顔で渇いた笑いを零すしか無かった。
と、課長の手の力が弱まり、ほっ、と安堵の息を吐いた時、するり、撫でるように手首を触れて課長の手が離れる。
課長に触れられていた部分が、ぞくりとした熱を帯びて、じわり、じわりと、そこから体に広がっていくようで、戸惑う。
何と無く、課長から手を離された事に淋しさを感じてしまった。
・・・って、僕は何を考えてるんだ!?
頭を抱えてしまいたくなる感覚に抗おうとしている僕に。
「何、面白い顔してるの?さっさと帰るよ」
頭、大丈夫か?と言いたげな課長の声が掛かる。
「はい!帰りましょう!!」
さっきのは気のせいだと、無理矢理に思考を切り替えて、僕は課長の背中を追い掛けた。
まだ、当分、僕の安息の時間は訪れそうにない。