淑 女 優 先[後編]

 すき、スキ、好き。好きって何だっけ?どういう意味だっけ?いや、意味は分かってる。分かってるけど、…え?
 異性を前にした時に似てるけどそれとはまた別の、全く新しい感覚が私を襲う。身体中が熱くなって、顔から火を噴いてるみたいで、何だか色んなところがむず痒くて、ふわふわしてる。何だろう、これ。何かの病気だろうか?
 何かがこう、ぐわっと込み上げてきて、それは多分嬉しいとか恥ずかしいとか、砂糖菓子のように甘やかなもので、でもその中に一つ。悔しいって感情が、チクチクとある。
 雨で濡れた世界が、じんわり歪んだ。まるで水の中にいるみたいで、ああこれは涙なんだ、私は今泣いているのかと知る。けど、どうして涙が出るんだろう。嬉しいからか、悔しいからか。悔しいのは、一体何に対してか。
 分からないことだらけの私は、ぶくぶくと沈み始めてる。雨に濡れた鉛色の街に。

 雨が降っている。
 さあさあと降っている。

 結局あれから一言も交わさぬまま、私の家に着いた。涙は無理矢理拭ったけれどまだ、跡だけは残っていたらしい。振り返る安田君の、私を見た時の訝しげな表情に、足がすくんだ。
 私は、震えながらもお礼を述べて、玄関先に立つ。せめて安田君が帰っていくのを、その背中が見えなくなるまで見送ろうと思ったから、家にはまだ上がらない。

「……あのさ、」

 安田君は少し下を向きながら言う。黒い傘が思ったよりも広いせいで、安田君の顔が見えなくなった。

「さっき言ったのは本当のことだけど、だからってあんたに無理に答え求めるつもりはねえから。無理に受け止めなくていいから」

 じゃあ、と短く言って、安田君は家路を辿っていく。こうやって改めて見てみると、随分大きな傘だなあ。あの中に、さっきまで私はいたんだ。あの中で、彼の隣で、並んで歩いて。
 安田君は、優しい人だ。優しすぎるくらいだ。彼とそこまで長い時間一緒にいたわけではないし、まともに話したのだって今日が初めてだったけれど、雨が染み入るように、それだけは理解できた。
 不思議なことに、始めに安田君を見て感じたドキドキと、今のドキドキはいつの間にか違うものになっている。雨の日なのに、この満たされたような気持ちは何だろう?
 男性恐怖症だって、当たり前だけどこんな短時間に克服できたわけがなかった。なのに私は、怖いと感じたあの黒い背中を、こんなにも優しい気持ちで見ることができている。
 自分でも、よく分からなかった。よく分からなかったけど、とにかく今は、安田君を見送っていたいと思う。あの背中が、黒い傘が、鉛色の世界の向こう側に溶けて、見えなくなってしまうまで。

(いつか私、恋が出来るようになったら、)
(安田君のこと、好きになれたらいいなあ)

 雨が降っている。
 さあさあと降っている。


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