2009-9-21 21:00
うさぎがいつものように森の中を駆け回っている時だった。森の奥の小さな池に、月がいた。ゆうらりゆらりと揺れる紺碧の中で、ゆうらりゆらりと揺れていた。白くて、儚い月だった。
うさぎは月に恋をした。
うさぎはひとりぼっちだった。大して広くないこの森は、うさぎにとってはここが世界の全てであるかのように果てしないものだった。
うさぎは感情に乏しかった。大して広くもない世界でうさぎはずうっと一匹だったから、感情はあまり必要ではなかった。
うさぎは太陽が好きだった。ぽかぽかして気持ちが良いくて、だからうさぎはよく日向ぼっこをした。
うさぎは美しくて、悲しいものが好きだった。だから、自分同様に寂しいあの月に、恋をした。
うさぎは、暇さえあればすぐに池に行った。そのほとりで、ゆうらりゆらりと揺れる月を見ていた。うさぎは夜を楽しみにしていた。何故なら、夜になれば月はより一層美しく、孤独に輝くからだ。
森の夜空には星が少なかった。月はひとりぼっちだった。うさぎはそんな月を愛しく思い、ルビーのように真っ赤な目を細めるのだった。
ねえ、キミ。
そんなところにいて、寂しくないかい?
ボクは、とっても寂しいよ。キミが、そうして空から見ていてくれるから、大分マシだけれど。
うさぎは、空を見上げる。真っ黒い空の直中に、ぽっかり浮かぶひとりぼっちの月を見上げる。
ねえ、キミ。
そこから降りておいでよ、ねえ。
うさぎは泣いた。
しくしく泣いた。
うさぎの涙は池に落ちて、月の影がゆうらりゆらりと揺れた。
うさぎは寂しがり屋だった。だけれど、仲間はいない。思えばうさぎは、物心つく前から、ずうっとひとりぼっちだった。
この森にはうさぎ以外何もいない。小さな小さな虫すらいない。綺麗で、寂しい森だった。
朝、森を包む柔らかな靄がうさぎは好きだった。だって、一人であることに気付かないで済むから。靄が晴れて、クリアになった世界は美しく、だけれどたくましく見えたから、うさぎはそれが嫌だった。
うさぎは白は好きだったけれど、白い空は嫌いだった。白い靄のかかった森の中、ふと見上げると白い空。白い世界。白い世界では、月が溶けて消えてしまうから、うさぎは白い空が嫌いだった。
ねえ、キミ。
キミは白くて、美しいね。
キミの白が好き、とうさぎは言う。
お揃いだね、とうさぎは笑う。
白って、空っぽの色だと思うんだ。
ねえ、キミは空っぽかい?ボクは空っぽだよ。
ゆうらりゆらりと流れてきた雲が、空を覆う。空は緩やかに白くなっていった。白い空には、月はいなかった。
うさぎはまた、泣いた。
ねえ、キミ。
聞いて欲しいことがあるんだ。
風がひょおひょおと吹く夜だった。白く、眩しい月を見上げて、うさぎは言う。
ボクはキミが好きだ。
うさぎは、想いを託すようにアネモネの花を一輪、池に放り投げた。月に、と投げた花の意味は、うさぎにも言えることだった。けれどうさぎはきっと、アネモネの花の花言葉を知らないだろう。
月の影がぐにゃりと崩れる。うさぎは構わず、続けた。
キミは、決してボクの下には来れないだろう?だから、代わりにキスを贈ろうと思うんだ。すぐに形を失ってしまうような儚いものだけど、ボクの中のキミを想う美しい気持ちを乗せるよ。
うさぎは、水面に映る月の影にキスをした。それは決して空っぽではない、白にも黒にも変わることのできるような、極彩色のキスだった。
うさぎは、そうして静かに目を閉じた。風がひょおひょおと吹いている。
ねえ、キミ。
叶うならキミに、好きになってほしかった。だけど、それは無理なんだね。
白い月は、悲しいくらいに空っぽだった。
「何その訳分かんない話。絵本か何か?」
女の質問に、男はああと頷いた。手には白い本が一冊。
先日、男は久し振りに自分の部屋を掃除し、その際に見つけたのだという。
「子供向けではないと思うけどな。なんか、暗いし」
「思った。うさぎまじ病んでるよね」
「けどなんか、他人事じゃねえ気すんだよな」
何でだろう、と首を傾げる男の頭を、女はわしゃわしゃと撫でた。
「案外あんたの前世だったりして」
女の、白くてほっそりした綺麗な手を見ながら男は、
「ありえねえ」
ルビーのように真っ赤な目を細めた。
月に恋したうさぎの話