淑 女 優 先[前編]

 雨が降っている。
 さあさあと降っている。


 どんよりと重たい鉛色の空を見上げ、はあと溜め息を吐いた。今日の昼くらいから降り始めた雨はいっこうに止む気配を見せない。うっかり傘を持ってき忘れてしまった私は、さあどうしたものかと途方に暮れている。
 学校にいくつかある貸し出し用の傘は既に全て貸し出されていた。委員会の仕事で下校時間ギリギリまで残っていた私を待ってくれる友人などいるはずもなく、いよいよ雨に濡れながら帰るという決断を下そうとした時。
 不意に右肩を誰かに叩かれた。振り向くと、そこに立っていたのは。

「あ…。安田、君…」

 同じクラスの、安田君。下の名前は生憎覚えていない。私は他人の名前を覚えるのが苦手だから、多分そのせいだ。それから、同じクラスと言えど部活も委員会も係も違うし、おまけに席も全く近くないから、接点がないせいもある。
 安田君は、微かに驚きを見せつつ、何をやっているのかと尋ねてきた。確かに下校時間もとっくに過ぎた今、玄関先に突っ立ってぽけーっと空を見上げているクラスメートがいたら気にならないわけがないか。
 安田君の、いや、変声期を迎えた男子特有の、やけに大人びた低音が鼓膜を震わせる。途端に、全身の筋肉が強張った。ああ、そうだ。私は。

「え、あ……」

 上手く、声が出ない。絞り出されたような、はっきりとした形を持たない音が、不格好なまま外気に触れる。がくがくと足が震えた。
 安田君は気怠そうな目で私を見下ろしている。程無くして状況を理解したらしい安田君は「傘忘れたんだ」と事も無げに言った。それから、手に持っていた黒い傘を私に差し出してくる。言葉が出ない分私は、必死に首を横に振った。その際、少し頭を下げて目を瞑ったから、先ほどまで感じていた息苦しさが幾分かマシになった。
 これだけ力一杯拒否したから、だろうか。視界の真ん中にどんと伸びていた黒い傘が、ひゅっと上に引っ込んだので、安心して顔を上げる。
 安田君は何事もなかったかのように傘を開いた。そのまま帰るのだろう。その時は、せめて挨拶くらいは言わなくちゃ。そんなことを考えているうちに、安田君の頭上に、大きく開かれた黒い傘がやってきて、さあいよいよ帰るのだなと思う。挨拶をするために、はあと深呼吸を始めようとすると、安田君の手がこちらに伸びてきた。傘を持った手が。

(え、?)

 黒い傘が、私の頭上でぴたりと停止する。広くて立派な黒い傘。私と安田君の二人を裕に飲み込んで、ある。
 この状況を見て、彼が一体どうしたいのか、どうしようとしてるのか、分からないほど私も馬鹿ではないから、ただ驚いて安田君を顔を見た。目が合ってしまった。気怠そうな目、視線がかち合う。ぞくりと言い様のない感じに襲われそうになった時、安田君からふと目を逸らした。逸らしてくれた、のかもしれない。

「あんたが動かない限り、俺も帰らないけど」

 それは確実に退路をすっぱりと絶って、私からこのまま帰る以外の選択肢を奪ってしまった。彼が帰るまでこうしていようと思ったのに、私が動かないと彼も帰らない。遅くまでいると先生に見つかった時にものすごく怒られる。二人とも。安田君は、怒られなくてもいいのに、私のせいで怒られてしまう。それはとてもマズい。そんなことになったら私は明日から太陽の下を堂々と歩けなくなる。毎日毎日安田君を見る度に罪悪感に押し潰されそうになりながら過ごさなくてはならなくなる。そんなの嫌だ。絶対に嫌だ。
 一生の平穏か一時の苦行を秤にかけた結果、私は鉛をつけたかのように重たい足を、せいやあと踏み出すのであった。







 小さい頃から異性と言うものが怖くて仕方がなかった。いつだったか、クラスメートの男の子が冗談のつもりで肩に軽く触れた時、目眩がするような嫌悪感が身体中を駆け巡り、我慢出来ずにトイレに駆け込んで嘔吐したことがある。それくらい、生理的に異性を受け付けなかった。
 高校に上がり、大分マシになってきたのだが、それでもやはり男性が苦手で、五分話すのが精一杯。男性を前にするとたまに呼吸が上手く出来なくなったり、知らぬ間に涙が出てきたり、頭の中が真っ白になる。昔と変わったことは、その時に感じるものが嫌悪感から恐怖感になったこと。
 そうなった要因は全く分からない。ただ、気がつけば記憶の中の私はいつも男性恐怖症でびくびくして過ごしていて、だから皆が言う恋と言うものがまだよく分からないでいる。
 恋をする女の子は皆、きらきら輝いてて羨ましかった。同じことを繰り返してばかりいる、灰色の毎日が、突然極彩色になったみたいで、羨ましいという気持ちの他に、何で私はこうなんだろうなあという気持ちも抱いた。

 ―――ああ、嫌なこと思い出したなあ。きっと、今日が雨だからだ。



 私と安田君は、少しだけ間を開けて肩を並べている。少しだけ、とは傍目から見ての判断だが、私の中では日本海溝よりも深い深いふかあい溝を隔てているイメージ。と、仮想の事象で理由付けて、安心しようとしてみる。この間隔を決して偶然出来た曖昧なものなんかではなく絶対的な隔たりとしてるのが、自分だなんて。そんな最低な人間だって思いたくなかったから。
 学校を出て暫く経つが、お互いに何も話そうとしない。こんなにも居心地の悪い沈黙は初めてだ。でも、気を利かして何か話題を振るなんて、今の私には到底できないことだったから、大人しく口を閉じている。

 雨が降っている。
 さあさあと降っている。

 閑散とした住宅地に、雨音だけが溢れている。私達の足音や、息遣いすら、雨音の中に溶けて消えた。黒いビニール傘に、雨が激しく打ち付けて、その不規則なリズムがひどく耳障りだった。雨は、好きじゃない。

 「話したくなけりゃ、」

 安田君が、突然口を開いた。それは、雨音に消されることなく、無事に私の耳に届く。びくり、と身体が震えた。

「話したくなけりゃ、別にいいけどさ。雨、嫌いなの?」

 私はじっとコンクリート舗装された道を見つめて、それから小さく頷いた。安田君の方を向かなかったのは失礼かもしれないけど、でも多分彼の方を向いたら何も出来ない。呼吸の仕方さえ忘れてしまって、もしかしたら、泣いてしまうかもしれない。だけど、だからと言って無言でいるのは失礼だから、せめて答えるくらいはしなきゃあ、と、思った私の精一杯だった。これが。

「ふーん…」

 安田君からの返答は、それだけ。理由を聞かれなかったことにほっとしつつ、もし聞かれたらなんて答えるんだろうなあ、と少し考えた。
 そういえば私は、物心つく前から雨が大嫌いだった。嫌なことがある日はいつも雨。今日だってそう。安田君には悪いけど今こうしているのは、今日が雨だったからだと思ってる。きっと、雨も私のことが嫌いなんだろうな。
 やがて前方に、本当に小さくだが小さな一軒家が現れた。私の家だ。それを捉えた瞬間、心なしか歩く速度が上がったような気がする。けど、そんな私のスピードに、安田君は決して遅れることなくついてきた。どうやら私が濡れてしまわないように、気を遣ってくれているらしい。よくは知らないけど、優しい人だなあ、と素直に感じた。

(私が普通の女の子だったら、安田君のこと、好きになったのかな)

 恋を知らない私は、その始まり方を当然のごとく知らないので、ぼんやりとそんなことを考える。多分、そうなったらいいなって、ほんの少しだけだけど、考えたからかも。男性恐怖症とは言えど、その人の本質に目を向ける努力くらいはしているつもりだから、なんて。言えば人は、単純だと笑うだろうか。
 じんわり広がる、甘い甘い温もりを、確かめるように胸に手をやる。とくんとくん、と命が燃える音を感じた。
 男性恐怖症持ちの私にとって、今この状況は拷問にも等しい。けれど、なんとなく。なんとなくだけど、今この瞬間が、もう少しだけ長く続けばいいのになあって。

「…ん、安田?」

 後方から、安田君の名前が聞こえた。二人して振り向くと、そこにいたのはまたまた同じクラスの横山さん。安田君とは確か、隣の席だった気がする。
 横山さんは女子なのに、スカートを短くしているにも関わらずはしたなく足を広げ、自転車に跨がっていた。そうして私達を見ていた。始めは訝しげに。しかしそれは段々と、物珍しい何かを観察しているかのような、いやらしい笑みに変わる。

「安田、お前何? 何で交野さんと帰ってんの? しかも相合い傘じゃん!」
「なんか、傘忘れたらしくて、だから…」
「とか言っちゃってー! 自分ら実は付き合ってんじゃね?」
「違えよ」
「じゃあ、あれよ。安田お前交野さんのこと実は好きなんでしょ!? じゃなかったら普段全然喋んないような子と相合い傘なんてしないよね!」

 きゃははっ!と横山さんの甲高い笑い声が辺りに響いた。正直に言って、かなり耳障りである。というか、それよりも安田君のことが心配になった。
 ああ、私がいることで安田君にあらぬ疑いがかかる。根も葉もない噂が流れたらどうしよう。そういうくだらないネタでいちいち絡まれるのも、面倒くさいに決まってる。
 私のせいだ。私が、傘を忘れたばかりに。私が、男性恐怖症であるばかりに。
 彼の栄誉を守るために、息苦しさを我慢して安田君の方を向き、言おうとした。ごめんなさいと、ありがとうを。けど、それよりもまず先に安田君の声が辺りに響いて。

「だから?」

 私はもちろん、横山さんも意味が分からなかったみたいだ。何に対してのだから?だろう。ぽかんとしていると、安田君が言葉を続ける。

「好きだけど。それが? なんかお前に迷惑かけたかよ?」

 一瞬、何を言ったのか分からなかった。それは横山さんも同じだったみたいだが、横山さんは私より先に安田君の言葉の意味を理解したらしい。

「え、あ、まじ?」
「うん」
「そっ、か。あ、うん。なんか、邪魔した、ね」
「うん」
「じ、じゃあ、また明日…」

 そう言って、慌て帰っていく横山さんの背中を見送る。やがてそれが見えなくなると、安田君は「行くか」と短く言ってまた歩き始めた。私も慌てて足を動かす。

(す、き? え、今、安田君なんて言ったの? 好きって、誰? わ、私…っ?)

 突然のことに、頭が上手くついていかない。

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